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≪041≫
 黒髪のミリアムと、金髪のミリアム。
 黒髪は豪華な巻き毛、金髪は清楚な直毛。

 黒髪のミリアムは、ロム帝国皇族の顔に似て。
 金髪のミリアムは、滅ぼされた西国の王家の顔立ち。

 なんの因果か。
 若き日の皇后と、先帝の愛人が。
 仲むつまじく寄り添っているかのよう。

 暗殺された先帝の愛人は銀髪の巻き毛。
 それはジョルダンの特徴でもあり。
 ミリアムの直毛とは異なるし。

 暗殺を命じた皇太后は、紅蓮の巻き毛。
 それはカイルの特徴でもあり。
 黒髪はカイルの妻、皇后の特徴。

 そういう相違は、あるものの。

 第一、黒髪のミリアムの瞳は、だれとも似ていない。
 右が翡翠、左が琥珀。
 左右が異なる瞳の色。

 この瞳ゆえ。
 ミリアムの人生は、滑り出しから過酷。

 ものごころついたのは、見世物小屋。
 親に売られた。

 親。顔も知らない。

 両親ともが、厄介払いをしたかったのか。
 それともどちらかは、少しでも。
 手放すのを、ためらってくれたか。

 嘆いてくれたか。
 そんなことは、わからない。

 どんな親だろう。
 貧しい暮らしに屈したか。
 それとも案外。

 どこぞの貴族の奥方か、あるいは嫁入り前の姫君が。
 火遊びで宿した種だったのか。

 想像なら、いくらでも。
 ただ、現実は。

 親に売られて、見世物小屋に。
 たしかなのは、それだけ。

 小屋がかかれば鎖につながれ、
 人々の好奇心と優越感を満たす道具に。

 そうでなければ、小屋仲間の玩具。
 時には客も、取らされる。

 否も応も、ない。

 そんな日々の中、女衒が来た。
 客として。

 相手が女衒と知って、ミリアムは。
 初めて自分から、誘惑。
 この顔が、身体が、武器になると気づいた瞬間。

 弄ばれるだけの玩具でなく。
 使い捨てられるだけの道具でなく。
 相手を操れる、従わせる力を、秘めていたこと。

 それを育んでいた。
 今、それが芽吹いた。

 ミリアムは女衒をそそのかし、
 大枚を払わせて、見世物小屋に別れを告げた。

 とはいえ。
 引き取られた先は、女衒。

 客相手に身を売る、それ自体は今までと同じ、だが。
 これからは、多少なりともミリアムのほうに。

 選ぶ権利が、ある。
 主導権を、握れる。

 女衒は、高級娼婦を扱っていた。
 ミリアムは、高級娼婦になった。

 九つの頃のこと。
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≪042≫
 娼館で、黒髪のミリアムは売れっ子に。
 かつて気味悪がられ、さらし者にされた、
 左右異なる瞳の色は。

 いまや「神秘的」と、もてはやされ。
 世間の評判というものの、なんと当てにならぬこと。

 冷笑を片頬に。
 とりまき連中の称賛と甘言、そして娼婦仲間の
 嫉妬や羨望などを、一身に浴び。

 それらを養分として艶やかに咲き誇る、仇花。
 それが、ミリアム。

 やがて。
 ミリアムには、さらなる付加価値が。
 高貴な身分のだれかに似ているという。

 皇太后だか、皇后だか。
 そこらの男には、とても手の届かぬ雲上人。
 高嶺の花どころの話ではない。

 模造品とはいえ、それが買える、抱けるとなれば。
 物見高い者たちが群がってくるは、必定。

 成長するにつれ、
 雲上人とミリアムとの類似点は高まる一方。
 人気も、うなぎ昇り。

 ちやほやされながら、十二の頃まで娼館で暮らす。
 ある男が、やって来るまで。
 男はミリアムを所望し、ミリアムを一目見て。

 泣いた。
 何故かは知らない。

 男はミリアムに指一本ふれず。
 女衒と掛け合い。
 身請けの交渉を始め。

 女衒は法外な値を、突きつけた。
 男は言い値を支払った。
 これには女衒のほうが、腰を抜かしそうに。

 どこの気まぐれなお大尽かと思いきや。
 男は宮中の伝令係。名はダリル。

 並よりは高給であろうけれど。
 土地持ちの貴族でもなく、豪商でもない、
 言ってしまえば、一介の雇われ人が。

 蓄財を投げ打ってまで、何故。
 自分を囲うのか、しかも。

 ダリルは依然として、ミリアムには触れようとせず。
 ミリアムのほうから誘っても。

 拒む。

 見栄っ張りが格好つけて照れているのかと。
 さらにしつこく迫ってみれば。

 はりたおされる。

 ろくに口もきかない。目も合わせない。
 長屋の一室に、閉じ込めているだけ。

 飼い殺し。
 なんのために。
 どうして、引き取られたのか。

 ただ困惑の日々だけが、
 無為に過ぎてゆくばかり。
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≪043≫
 これは一体、新手の罰なのか。
 退屈で、気が狂いそう。

 これまで生きてきたなかで、ミリアムは。
 男をたぶらかすこと以外。
 ほとんどなにも、してこなかった。

 家事もこなせず、これと言った趣味もない。
 本も読めない。

 なにもすることが、ない。
 なにも、できることが、ない。

 一種の地獄と言ってもよかった。

 ミリアムを囲った男、ダリルは。
 ミリアムを庇護しているつもりでいたが、その実。
 外界から、隔絶しているだけ。

 かごの鳥にも「歌う」という役割がある。
 歌えなくても愛嬌をふりまく、という役割が。
 ミリアムには、なにもない。

 唯一ずば抜けて得意なこと、
 男を翻弄し、やがて屈してやり、
 癒しなぐさめる手練手管は、禁じられ。

 なにもしなくていい、と言うことは。
 それしかしてこなかった者にとっては。
 存在自体を全面否定されるも、同然。

 ミリアムは、ダリルに感謝などしなかった。
 むしろ憎むようになった。そして。

 自分の属する世界へと、ふたたび身を沈めた。

 長屋に住む男どもを片端から、落としてまわったのだ。
 そのありさまは、まるで。

 陸に上げられ、瀕死の状態だった魚が、
 水中へ帰還し息を吹き返し、
 優雅に溌剌と泳ぎ出したよう。

 ミリアムはそれを、公然とやってのけたので。
 女たちの反感を買い、
 方々に諍いの火種を撒き散らし。
 ほどなく、ダリルにも知れた。

 怒り狂ったダリルは、ミリアムを折檻。
 寝台の柱に縛りつけ、背を鞭打った。
 口汚く、ののしりながら。

 ダリルのほうが、苦悩に顔を歪め。
 ミリアムは、歓喜の声をあげる。
 勝ちどきのように、誇らしく。

 これだよ。
 これでこそだよ。

 この痛み、この刺激、これがないと。
 生きてる感じが、しないんだ。

 あたいは生きてる。これからも生きる。
 殺されてたまるもんか。
 あんたになんか、飼いならされるもんか!
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≪044≫
 ダリルはミリアムを連れて長屋を引き払い。
 町はずれの一軒家へと引っ越した。

 だが、どこへ行っても。
 どこにでも、男はいるもので。

 どこにでもいる男のうち、
 ミリアムの妖気に当てられぬ者は、皆無。

 ことあるごとにダリルはミリアムを厳しく叱責。
 体罰も辞さなかったが。
 逆効果。

 いまやダリルのほうが、すっかり憔悴。

 ダリルに打ち勝ち、男どもを手玉に取り。
 それが日常化してくると。

 ミリアムは、また、つまらなくなった。
 退屈で、狂い死にしそう。

 胸の中に、穴がある。
 穴はなにかに、飢えている。
 渇いている。

 なにを放り込んでも、満たされない。
 何人もの男や女の。
 血や汗や涙やその他の体液をしぼり取り注いでも。
 愛憎の限りを吸い尽くし吐き出させても。

 ふさがらない。
 ひろがるばかり。
 もっと、もっとと、さらに飢え渇くだけ。

 男なんて、みんなチョロイ。
 保護者ヅラした父親きどりの、
 あのイヤなヤローも、へこませてやったし。

 放蕩も、やり尽くした。
 いい加減、もう飽きた。

 胸の穴は、ふさがらないし。
 なにをやっても、満たされないし。
 生きてたって、ロクなことが、ない。

 もう、死のうか。

 唐突に、
 湧き上がってきた、衝動。

 死んでしまおうか?

 だって今まで生きてきたのは。
 あいつに引き取られてから、こっち。
 あいつを困らせ、あてつけるため。
 ほとんど、それだけだったから。

 その目的を果たしてしまったからには。
 もう生きてる理由なんて、ないじゃん?

 そうだ、死のう。

 いっそ、天啓のよう。
 死への誘い。
 甘美な毒に、ほろ酔い。

 夢見心地の足取りで、路地から路地へとさまよい歩き。
 やがて、神殿の門へ、たどり着く。
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≪045≫
 門の前には、粗末な板が。
 ミリアムには読めないが、なにか書いてある。

 文字よりも、文字を汚すように書き殴られた、
 卑猥な悪戯書きのほうが、余程なじみ深い。

 文字は読めないが。
 わけもなく、イラついた。

 そこはかとなく、ダリルを連想させる。

 文字は読めなくても。
 卑猥な落書きに汚されるものと言えば。

 無力なキレイゴトと相場は決まっている。

 ダリル。
 無力なキレイゴトの、かたまり。

 ミリアムを泥沼から救い上げたつもりで。
 いい気になって、いいことをしてやったつもりで。
 実際は。

 ミリアムがこれまで培ってきたすべてを奪い去り。
 奪うだけ、奪い去っておきながら。
 かわりのものを、なにも与えてくれなかった。

 沼から、釣り上げておいて。
 ただ、手近の桶へ放り込んだだけ。

 愛でるわけでなく。
 料理して食うでもなく。

 住み慣れた世界から、狭い場所へと押し込めて。
 水が漏れていても、それをどうすることもできずに。
 干からびるのを、手をこまねいて、眺めているだけ。

 無力どころか。
 ミリアムにとって、その無力は。
 暴力にも等しい。

 不意に怒りが、込み上げる。
 怒りは、死の誘惑を吹き飛ばした。

 目の前の、薄汚れた看板が。
 ダリルそのものに見える。
 ミリアムの放蕩に手を焼く、ダリルそのものに。

 汚してやる、もっと、もっと。
 この手で。

 泥つぶてを、ぶつけてやる。
 何個も何個も何個も何個も作って。
 横一列に並べて。
 片っ端から、こいつに投げつけてやろう。

 それをしないと、死に切れない。
 それをやり遂げたら、もう思い残すことはない。
 こんな世の中、こっちから見切りをつけて、おさらばだ。

 そのまえに。
 気がすむまで、復讐してやるんだ。
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≪046≫
 ミリアムの目が、噴水を捉える。
 門を入ってすぐのところに、ある。

 小さな、手洗い場。
 礼拝に来た者が、手や口を清めるための。

 そこに近づく。
 柄杓も用意されているのに。
 それは無視して、水面に顔をじかに突っ込み、
 口中にたっぷりと水を含む。

 飛沫を飛ばし、顔を上げ、きびすを返し。
 水滴をしたたらせて走る。

 街路樹の陰に隠れ、土の上に水を吐き出す。
 湿気をおびた土をこね、
 つかみやすい大きさの泥だんごを作る。

 何個も何個も何個も何個も。
 作っては横に積み上げてゆく。

 単純な作業。
 熱中する。

 泥をこねて、団子を作る。
 ひとつ作り上げるごとに達成感を味わう。

 楽しい。
 止められない。

 まばたきも忘れ、目を血走らせ。
 口元には、うっすら笑み。

 せっせと泥だんごの山を築く。
 湿気をふくんだ泥が尽きてしまうまで。

 尽きてしまうと、額の汗を、拭う。
 泥まみれの手で。
 顔にも、泥がついた。
 拭いたあとで、気づいた。

 そう不快でも、なかった。
 もうすぐ思いを遂げて、この世に別れを告げるとなれば。
 顔に泥がつくくらい、どうということもない。

 いくら汚れたって、いい。
 こんな顔、こんな身体、もういらないんだから。
 もう、ずっと前から、いらなかった。

 あばよ! この世!

 木の陰から、泥だんごを投げつける。
 看板に向けて。
 一発目は、当たらなかった。

 構いはしない。
 泥爆弾は、山のようにある。
 次から次へと、投射。

 看板は見る間に汚される。
 門も塀も石畳も汚れる。
 大きくそれて、庭の中にも。

 肩で大きく呼吸しながら、
 狼藉を続けていると、出し抜けに。
 門の端から、少女が顔を出した。

 ミリアムと同じくらいか、それとも少し幼いか。
 くせのない、さらさらとした、まっすぐな金髪。
 菫色の瞳を、好奇心で見開いて。

 ミリアムは、少女を見た。
 もう残り少なくなった泥爆弾のひとつを、
 振りかぶっていた。
 視線を捉えた者のほうへ、それは飛んでいった。

 少女の顔面へ、一直線に。
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≪047≫
 避けるだろうと、思い込んでいた。
 当然、避けるものとタカをくくっていた。
 ……が。

「んん?」
 不穏な気配を察してか、少女は首をかしげ。
 ミリアムのほうを、真正面から見た。

「ぅわっ?」
 ミリアムの投げた泥つぶては。
 少女の顔面を、まともに捉えた。

 どさ、と地面に倒れる音。
 少女は、ミリアムの視界から消えた。

「うわあん、痛い、いたいよお」
 泣き声だけが、門の向こうから。
 ミリアムは木陰から、飛び出した。

「ばかッ、どうしてよけないんだよ!」
 門の中へ駆け込み、転げまわる少女を怒鳴る。

「い、いたい、め、目のなかに入っちゃった、
 いたいよ、痛いよお、ええええんッ」
「待ってな!」

 舌打ちをして、噴水へと取って返し。
 柄杓に水を汲んで、戻る。

「ほら、これで洗って! きれいな水だよ、
 そこから汲んできた! 早く!」

 ふにゃんふにゃんと、
 仔猫みたいな鼻にかかった泣き声をあげながら、
 柄杓に手を入れ、顔を洗う少女。

 小さな柄杓の中の水は、すぐになくなってしまう。
「もっと、もっとお水ちょうだい」
「はい、これ!」

 ふたつめの柄杓を、もうすでに用意。
 新しい水で、目の中の汚れはすべて取り除かれた。
 安堵のため息をつく、少女とミリアム。

「ありがとう、お水くんできてくれて」
 ずぶぬれの少女は、ミリアムに笑顔を向けた。
 輝くような。

 ミリアムは思わず、目を細める。
 太陽に射抜かれたかのように、目が痛んだ。

「他に、どこかケガは?」
「うん、尻もちついちゃったから、おしりがちょっと痛いけど、
 だいじょうぶだよ」

 まばゆい笑顔。
 まぶしすぎる。

 目が痛い。今度はミリアムの目のほうが。
 胸まで、痛い。
 胸の穴から、なにかが、せり上がってくる。

「……ごめんよ」
 この言葉を口にした途端。
 せり上がってきたものが、溢れ出てきた。

 両目から。
 それぞれ色のちがう、両目から。

 透明な液となり。
 とめどなく。
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≪048≫
 ごめん。
 こんな言葉が、自分の口から出るなんて。

 すぐには、信じられなかった。
 ごめん、と言いながら。
 泣くなんて。泣いているなんて。

 自分のことながら、信じられない。
 夢を見ているよう。

 頭の芯が痺れて。
 自分がなにをしているのか、認識する間もなく。
 ミリアムは、肩かけを自分の肩からはずし。

 それで、少女の濡れそぼった前髪やひたいや頬を。
 拭っていた。やさしく。乱暴にならないように。

 ごめん、ごめんね、と。
 繰り返しながら。

 だれかに詫びるなんて、謝るなんて。
 冗談じゃない。
 そんな人生を、送ってきたはずだ。
 なのに。

 素直に許しを乞うことの。
 なんという、爽快感。

 ごめん、と口にするごとに。
 胸の穴が、内側から埋まってくる。

 手当たり次第に放り込んできたガラクタが。
 せりあがってくる。
 押し流され、涙となって外へ溢れ。

 出尽くした頃、胸の穴は。
 泉に。

 清らかに、透き通っていて。
 底まで、見通せる。

 底に敷き詰められていたのは。
 玉石。

 その玉石が、泣いている。
 敷き詰められた玉石の間から。
 水が湧き出しているから。
 泣いているように、見える。

 湧き出す水は、ささやく。
 歌うように。

 ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 これはミリアム自身が、ずっと言ってほしかった言葉。

 自分を捨てた親に。
 見世物小屋の連中に。
 女衒に。
 娼館に巣食っていた娼婦仲間に。
 客に。
 ダリルに。
 男どもに、女たちに。
 世の中の、すべてに。

 けれども現実には、だれにも言ってもらえなかった。
 だれからも、もらえないものを。
 こちらから、あげられるはず、ないじゃないか。

 そう思っていたのに。
 胸の泉の底から、湧き出してくる。

 先刻、血道をあげて作った泥団子の数を、
 はるかに超えて。

 ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 湧き上がるまま、口に出す。

 ミリアムは、いつしか少女に、すがりついていた。
 すがりついて、号泣していた。

 少女は。
 なぜか知らないが、少女のほうも。
 泣いていた。

 うん、うん、と頷きながら。
 ミリアムの髪を、なでながら。
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≪049≫
 読み書きを、習いたいんだけど。
 唐突に切り出したミリアム。
 面食らうダリルを仏頂面で見返しつつ続ける。

 そんで、教えてくれる人が、
 あんたにも会っておきたいから、
 いっぺん連れてこいって言ってんだけど。
 どうする?

 翌日ダリルは無理を言って仕事を休み。
 ミリアムとともに、神殿へ。

 どうかよろしくお願いしますと、
 ダリルが頭を下げたのは、
 神殿の管理者、ティエリー導士。

 導士は柔和に微笑みながら、
 ダリルの勘違いを、訂正。

「間違われるのも無理からぬことですが。
 彼女に読み書きを教えるのは、わたしではありません。
 こちらの、巫女です」

 ハッとしてダリルは顔をあげ、改めて。
 導士のとなりに佇む少女へ、目を向ける。

 小さい。
 たいそう可愛らしいけれども。
 なんとも無邪気で、頼りない印象。
 もしやミリアムよりも幼いのではないか?

「はじめまして、ダリルさん」
 小さい巫女は右手を差し伸べる。
 喋り方も、舌足らず。

「あたしも、ミリアムって言うんです」
 ひとなつこい笑みで小首をかしげ、ダリルを見上げる。
「そうでございましたか、それは、失礼をいたしました」

 内心の動揺を押し隠すのは。
 仕事で慣れており、得意。
 巫女ミリアムの前にひざまずき、その手を取る。

「どうか、この子をよろしくお願いいたします、巫女どの」
「はい、たしかに、うけたまわりました」

 すまして答えると、もう用はすんだとばかり、
 ダリルの横をすり抜けて。
 黒髪のミリアムのもとへ、一目散。

「行こっ」
 教え子ミリアムの手をつかむ。

「え、もういいのかい?」
「うん」
「あいつと話するんじゃないの?」

 巫女ミリアムに手を引かれながら、
 黒髪のミリアムは、ちらりとダリルを振り返る。

「ううん、あたしは、どんなひとか顔を見ればわかるから。
 細かいオトナのお話は、導士さまがしてくれるよ。
 それよりミリアム、あたし教科書つくったんだよ」
「きょうか、しょ?」

「そう、ぶたさんが字を教えてくれるの。
 楽しいよお。
 うまく描けたと思うんだけどな」

「なんで、ぶたなのさ」
「ええー、だってぶたさん、かわいいじゃない」
「どこがだよ」

「いろいろだよ。色とか形とか。
 だって全体ももいろだしねえ、お耳とかしっぽとか、
 くるんくるんしてるでしょーお?
 えっと、それからあ……」

 ふたりのミリアムは、と言うより巫女ミリアムは。
 熱のこもった、ぶた談義をしながら、退出。

 取り残された形の、大人の男ふたり。
 宙に泳がせたダリルの視線が、導士とぶつかる。

「……お茶でも、いかがですか?」
 導士はダリルへ、ひかえめに提案。
【いちばん上へ】  【ひとつ上へ】







≪050≫
「驚きました」
 椅子に腰かけ、導士のいれてくれた茶を飲みながら。
「あれが、年相応に見えたのは、初めてです」

 あれ。
 ダリルはミリアムを「あれ」と指す。
 ことさら距離を置くような、突き放した言い方。

 導士は、違和感を覚えなかったか。
 覚えても、あえて沈黙を保ったか。

「わたしのことは、
 あれの口から、なにかお聞きになりましたか」
 沈黙に、先に耐えられなくなったのは、ダリルのほう。

「たしか、宮廷の伝令係をしていらっしゃるとか?」
 ダリルは軽く、うなずく。
 かすかに、口元がゆるむ。
 ひそかに、胸をなでおろす。

 よかった。
 裏の仕事は、勘づかれていないようだ。
「あれ」にも。この導士にも。

 ダリルの裏の顔、それは。
 暗殺者。
 皇太后の、直属だった。

 今は。
 皇后にも、正体を告げられている。
 皇太后そのひとの口から、直接。

 なにかの折には、お使いなさい。
 口の固い、頼りになる、切れ者です。
 目立たず、それでいて「仕事」は完璧。

 なにより、わたくしに絶対の忠誠を誓ってくれている。
 使える、男です。

 皇太后と、皇后。
 当時はまだ、皇太后が皇后に地位にあった。
 先帝の退位が決定してから、ダリルは。
 先皇后から、現皇后に、引き合わされた。

 髪と目の色を、除いては。
 同じ背格好、似たような服装。
 華美を抑えた、落ち着いた色調。
 光沢が、布地の上質を主張。

 二人が並ぶと、叔母と姪と言うよりは。
 まるで、少し年の離れた姉妹のよう。

 ……お義母さまに、懸想しているの?

 前皇后が退いた後。
 現皇后の放った言葉。
 ダリルは返答に窮し、ひざまずいたまま硬直。

「顔を上げて、こちらを向きなさい」
 命令を下し慣れた、もの言い。
 前皇后よりも少し固く、高い声質。
 けれど、やはり、似ている。

「ご覧、わたくしを」
 どうして、逆らえるだろう。

「わたくしは、よく言われます。
 お義母さまに、似ていると。
 おまえは、どう思いますか」

 はい。
 とても似ていらっしゃいます。

「そう。
 ならば、たやすいでしょうね」

 わたくしを、抱くことなど。

 耳を疑うダリル。
 いま、なんと?

 現皇后は立ち上がり、玉座を離れ。
 ダリルのもとへ。
 すぐ、そばに。

「立ちなさい」
「畏れ多くも、陛下の御前にて、
 対等に並び立つなど許されませぬ。
 どうか、ご勘弁を」

「いいから、しのごの言わずに、立つのよ」
 苛立つ声が、ダリルへと降り注ぐ。
 竦むは苦悩ゆえか、背徳への恐怖か。

 それとも。興奮。

 ひざまずくダリルの眼前には。
 皇后の手。
 手の形まで、叔母君とそっくり。

 ドレスの端を、握りしめている。
 その手は、震えている。

 声だけは、威厳を保つ。
 立って、わたくしを、抱きなさい。
【いちばん上へ】  【ひとつ上へ】







≪051≫
 言い訳は通用しない。
 ダリルは、現皇后の命令に従った。

 求めに応じた。
 一度ならず。

 断れなかった。
 それも、言い訳。

 皇后さまは、数々の謎を秘めている。
 お召し物をすべて脱ぎ去っても。
 まとわりつく謎は、五体を離れない。

 内臓の奥深くから、滲み出して来て。
 肌の上を漂い、立ち昇っている。

 体臭のように。
 それは決して、消えてなくなりはしない。

 なぜ皇后さまは、自分を選び。
 身を、任せるのか。

 皇后さまは、まるで、そのお身体を。
 ばらばらに砕いて、
 ぞんざいに投げ与えているかのよう。

 広場に群れる鳩や、池の魚に。
 餌を、ばら撒くかのように。

 この、ダリルに。
 伝令ごときに。
 裏の「仕事」も知りながら。

 やんごとなき身分の、貴婦人が。
 何故?

 高貴な家柄に生まれ、育ち。
 皇家に嫁いで。

 世界を照らす太陽の如き賢帝の横に、
 座しながら。

 何故。
 これほどまで。
 ぬくもりに飢え、渇いているのか。

 渦巻く謎に絡めとられて、離れられない。
 疑問を口に出すなど、とんでもない。

 あちらから話しかけてこない限り、
 こちらから口を開くことは、できない。

 禁を破り、訊ねたとしても。
 答えを得られる確率は、低い。

 皇后さまは、最小限の言葉しか発しない。
 あれをしなさい、これをしなさい、もしくは。

 こういうことは、しないで。
 具体的には。

 わたくしの首から上には、触れないように。

 これも、謎。
 なぜ、そこに触れてはいけないのか。

 答えは、得られない。
 聞くことも、かなわない。

 ただ、命じられたことをして。
 禁じられたことを、しないだけ。

 だた、これも、しょせん、言い訳。
 あの外見が、なにより魅力的。
 皇太后さまに、生き写しの皇后さま。

 皇太后さまが、天上に輝く月ならば。
 皇后さまは、その月を写した水面。

 手のひらに掬い取れば。
 飲み干すことも、可能。

 愛しいと、思う。
 悪ぶって強がる、手のひらのなかの儚い月。

 この感情も、まやかしかもしれないけれど。
 なにかから、目をそらすための。

 なにかとは。
 本当はわかっている。

 カイル皇帝陛下。

 あの方が、皇子だった頃から。
 欺き、裏切り続けている。

 あの方の、最愛の女性を。
 暗殺し。
 今また、お后を。

 寝取って。

 おそろしい、この罪から、逃れるために。
 こんなささやきを、洩らしてしまったのかもしれない。

 腕の中の、皇后さまへ。
 あなたは美しい、と。
【いちばん上へ】  【ひとつ上へ】







≪052≫
「今度わたくしに向かって、勝手になにか口走ったら、
 おまえを殺すわ!」

 先刻まで我を忘れ恍惚としていた皇后は、
 ダリルのささやきを耳にした途端、豹変。

 ダリルを突き飛ばし、掛布に身を包み、
 壁にかけてあった鞭を取り、
 それでダリルを打ち据えた。

「汚らわしい、殺し屋ふぜいが、
 調子に乗って、つけあがるなんて、
 許さなくてよ!」

 嵐が過ぎるのをじっと耐えて待つダリル。
 やがて皇后は、鞭を床に投げつけ、
「出て行きなさい!」

 命令に、従う。
 今も、また。

 常と違うのは。
 胸に、暗い炎が宿ったこと。

 愕然とする。
 鞭打たれ、罵られたからではなく。
 鞭打たれ、罵られたことによって。

 深く、傷ついたことに対して。

 自分は、皇后にとって、道具でしかない。
 わかりきっていたはずなのに。

 傷つくとは。そのあげく。
 皇后を、憎むとは。

 それまでは、気を遣っていた。
 間違っても、妊娠させないように。
 どれほど理性を失いそうになっても、それだけは。

 肝に銘じていた。
 けれど。

 この一件があってから、次の機会には。
 敢えて、理性を、かなぐり捨てた。

 皇后は身籠り。
 ダリルは、その後始末を。

 秘密裏に産まれおちた子を。
 闇から、闇へ。

 だが、あらかじめ、
 赤子を失ったばかりの若い夫婦を見つけていた。
 下町で雑貨屋を営む。

 ダリルは、自分と皇后との間にできた子を。
 彼らに、託した。

 赤子は、左右の瞳の色が違っていた。
 右が翡翠、左が琥珀。

 夫婦には月々、送金を。
 ある程度、育つまで。

 独身の、仕事を持つ男が引き取れるまで。
 預かってもらう、そういう約束で。

 だが。
 夫婦は、ダリルを裏切った。
【いちばん上へ】  【ひとつ上へ】







≪053≫
 ダリルは夫婦に送金し続け。
 夫婦はダリルが遣わした使者に、嘘をつき続けた。
 子供は、元気だと。

 六年の歳月が流れ。
 ダリルが子供を引き取るため、夫婦を訪ねた際。
 初めて、真相を知った。

 子供を預けた翌年に。
 雑貨屋の妻は身籠り、出産。

 すくすく育つわが子は愛しく。
 それに比例して。
 預かった子に対する情は、醒めてゆく一方。

 近所へ流れてきた見世物小屋に。
 左右、瞳の色が違う養い子を連れて行ってみれば。
 存外、良い値で買い取ってくれると言う。

 賢帝カイルの庇護のもと。
 景気は安定、暮らし向きはそう悪くはないけれど。
 金は、いくらあっても。
 あり余って困るなどというものでは、ない。

 厄介払いが手軽にできて、しかもその分、
 可愛いわが子に贅沢をさせてやれるし。

 金だけ寄越して、
 ろくに様子も見に来ない多忙な男を、
 あと何年か騙し通すくらい、造作もない、と。
 夫婦は、その子を、売り飛ばしたのだった。

 もう遅いよ。お生憎さま。
 残念だったね。

 しれっと言い放つ夫婦に、ダリルは。
 殺意を、覚えた。

 幾人もの血を吸った短剣に。
 思わず、手が、かかる。

 ダリルの油断を嘲笑い、開き直る夫婦を。
 その気になれば、ダリルは。
 二人とも、瞬殺できる。

 文字通り、瞬きひとつする間に。
 二人の喉を掻き切るくらい、わけもなく。

「仕事」以外では。
 私情では。
 決して人は殺さぬと。

 みずから立てた誓いをも、吹き飛ぶほどの憤怒。
 それを鎮めたのは。

「父ちゃん、母ちゃん」
 飛び込んできた、幼い少年。

 おのれ、こいつが元凶で。
 自分の子供は追い出されたかと憎むには。
 あまりにも無邪気で、非力な相手。

 ダリルはその一家との絆を、断ち切った。
 一家の生命を、断ち切るかわりに。
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≪054≫
 八方手を尽くし、ダリルは子供を探し続けた。
 表の仕事も裏の仕事も、勤勉にこなしつつ。

 見世物小屋へ辿り着いたときには、すでに。
 子供はそこから姿を消し。

 それからも、執念で探し続け、ついに見つけ出した。
 高級娼婦の集う館で。

 ミリアムと、名づけられていた。

 ミリアム、それは。
 ダリルが、暗殺者として初めて手を汚した女の名。

 先帝の愛人。
 カイル皇帝陛下の想い人だった女。

 そう不自然なことでは、なかった。
 ミリアムとは、ありふれた名。
 女の子が産まれたら、とりあえずつけておくような。

 けれど、ダリルは。
 その名に運命を感じた。
 運命の、皮肉を。

 蓄財を投げ打って、引き取ったものの。
 ミリアムは、手のつけられない状態で。
 途方に暮れ、困り果てていたところへ。
 不意に現れた、救い。

 もうひとりのミリアムと。
 今、目の前で茶をすする導士。

 導士はダリルに、なにも訊ねない。
 ミリアムを引き取った理由や経緯など、なにひとつ。
 カマをかけたりもしなければ。
 糸口を探るようなそぶりも見せず。

 ただ、旨そうに茶を飲んでいるだけ。

 特別に作法が洗練されているのでもなく。
 それどころか、
 どちらかと言えば愚鈍な印象を与える所作。

 歩くとき、
 わずかに上体を斜めに傾けるくせがある以外は。
 どこと言って飛びぬけた特徴もないのに。
 それだからかも知れないが。

 妙に、落ちつく。

 この男ならば。
 なにを告白されても、
 驚かず、怯まず、受け入れてくれるだろう。
 ただ、静かに。

 相手の背にのしかかる重荷を。
 後ろから、無言のまま、そっと手をそえて、
 いくらか軽くしてくれそうな、気が。

 なにもかも、さらけ出してしまいたい、と。
 そんな誘惑に、駆られる。

 そんな誘惑に駆られて、ダリルは。
 少しだけ、秘密を洩らしてしまった。

 あのミリアムは不義の末にできた娘で。
 実の子だと。
 かろうじて、そこまでで思い止まった。
 
 相手が誰かは、言わなかった。
 裏の仕事の詳細なども、無論。

 いつ、どこで、どんな方法で。
 何人、殺めてきたか。
 だれのどのような指令を受けて。そんなことは。

 神の前に引き出されても、言わぬ。
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≪055≫
 あなたは美しい、と。
 ダリルに耳元でささやかれた皇后は、逆上。

 ダリルを鞭打ち、罵り、追い出し。
 その後。
 泣き崩れた。

 床を這いずって窓辺へ寄り。
 天蓋の影から、ダリルの背を見送る。

 おまえがわたくしを美しいと思うのは。
 わたくしが。
 お義母さまに。
 似ているからでしょう。

 だれも、わたくしを、見ない。
 だれも、わたくしを、必要としない。

 おまえにとって、わたくしは。
 お義母さまの、身代わり。

 皇帝陛下に至っては。
 だれかの身代わりにさえ、なれない。

 覚悟していた、はずだった。
 最初から、そう宣告されていた。

 おれはきみを愛さない、それでもいいか、と。

 それでもいいと。
 愛はいらないと。愛よりも。
 皇后という地位が欲しいと、偽って。
 嫁いできた。

 それでもいいと、言ってはみても。
 どこかで、甘い夢を見ていた。

 そうは言っても、時をともに重ねれば。
 あのかたの、かたくなな御心も、
 溶けるのではないかと。

 とんでもなかった。
 見くびっていた。

 陛下は、お変わりにならない。
 お言葉に、嘘がない。

 おれはきみを愛さないと。
 あのかたが、おっしゃるならば。

 それはもう、永久に、ひるがえりはしない。

 おれはきみを愛さない、それでもいいか。
 そう問われて。
 それでもいいと、あのかたに、ひとたび答えたならば。

 もう、ひるがえせない。
 みずからの吐いた言葉に、追いつめられてゆく。

 愛はいらない。
 皇后という地位をください。
 そう豪語した手前。

 政治や宮廷の権謀術数の渦に、
 飛び込まずにすませられる道理はなく。

 望んでもいない心理戦に神経をすり減らし。
 狐狸妖怪にも匹敵する者たちを相手に。
 最前線で、矢面に立つ。

 八方ふさがり。
 満身創痍。
 正気を保って、立っていられるのが不思議。
 
 どこからも助けは来ない。
 逃げ道は、みずから塞いでしまった。

 先帝は奇病にかかり、退位。
 皇子妃から皇后へ、さらに加わる重圧。

 もう限界。

 そんな折。
 義母から、ダリルを紹介された。
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≪056≫
 すぐに、察しがついた。
 この男は、お義母さまに懸想している。

 あの、まなざし。
 お義母さまを見上げる、あの表情。

 何故なら、わたくしにも、見に覚えが。
 あれは、あの表情は。
 わたくしが、かつて、浮かべていたもの。

 カイル皇子さまを見つめ、胸をときめかせながら。

 わたくしが、失ってしまったものを。
 この男は、まだ、みずみずしく保っている。

 刺客なのに。
 その手を、血で、汚しているのに。

 皇太后と伝令、もしくは。
 皇太后と、刺客。

 違いすぎる身分。
 成就する望みの全くない、片想い。

 それなのに。
 なんて、満ち足りた風情なの。
 誇らしげ。

 お義母さまに、切れ者と称されて。
 信頼を、勝ち得て。

 一見、報われぬようでいて。
 充分、満ち足りている。

 今までも、これからも。
 必要とされて。

 わたくしは、もう、必要とされていない。
 世継を、産んだから。

 育児は、乳母がやってくれる。
 教育は、優秀な教師陣が。

 いまや、置き物も同然。

 宮廷の陰謀の只中へ放り込んで遊ばせておけば。
 権力闘争を好む皇后は満足すると。
 皇帝陛下は信じ込んでいる。

 本当は、そんなことに興味はないのに。
 むしろ、不得意であったのに。

 嘘から始めた結婚生活を、
 維持していこうとするならば。
 嘘を、つき続けてゆく他はない。

 華やかな栄光に包まれているように見えながら。
 胸中には果てしない荒廃を抱え。
 荒廃は、さらに際限もなく、ひろがってゆくばかり。

 ダリルと皇后。

 真相を知れば、誰しもが。
 ダリルを羨み、皇后を憐れむにちがいない。

 けれど、真相は。
 だれの目からも、隠されている。

 気づいたのは、皇后のみ。
 皇后は自分を憐れみ、ダリルを羨んだ。
 ダリルを羨み、そして、憎んだ。

 自分が失ったものを、
 まだみずみずしく保っている、ダリル。

 わたくしが失ったのに、何故おまえが。
 まだ、持っているの。

 わかっては、いる。
 ダリルの肩にとまっている、幸福の鳥は。
 ダリルだけのもので。

 皇后が奪い取っても、その鳥は。
 死んでしまうだけ。

 皇后を幸福に、してはくれない。
 わかっている、それでも。

 自分が失くしてしまったものを。
 目の前にいる、この男が持っているのが、
 我慢ならない。

 奪っても、わたくしに幸福をもたらしてくれなくとも。
 奪ったら、この男は幸福を、失うわ。

 わたくしと同じように。
 不幸の淵に、沈むわ。

 幸福など、とうの昔に、あきらめた。
 こんな自分が、だれかを幸福にできるなどとも、
 到底、思われぬ。

 けれど。
 逆ならば、できる。

 だれかを。
 ダリル、おまえを。
 不幸にすることならば。

 おまえから、幸福を取り上げるためならば。
 こんな、だれからも必要とされない身体など。
 ばらばらにして何度でも、投げ与えてやりましょう。

 皇后は、その権威をふりかざし、ダリルに迫った。
 わたくしを抱きなさい、と。
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≪057≫
 あなたは美しい、と。
 ダリルに、ささやかれて。
 逆上したのは。
 絶望したから。

 あなたは美しい、その言葉を。
 素直に鵜呑みにできるほど、うぶであったなら。

 実を言うと、一瞬だけ。
 よろこんだ。
 うれしかった。
 癒されて、慰められた。

 と同時に。
 癒され、慰められたおのれを恥じた。

 征服されたように感じた。
 支配されたように。
 屈服したように。

 ダリルに。
 一介の、伝令に。
 うす汚れた、殺し屋に。

 遊び道具と定めた相手に。
 憂さ晴らしの玩具に。
 なぐさみものに。

 逆に。
 もてあそばれたように。

 ダリルが、と言うよりも。
 自分が、許せなかった。
 しかも相手は、自分の影に、
 皇太后を見ているのに。

 わたくしの実体でなく、影を欲する男に。
 わたくしは。
 心を開こうとした。

 許せなかった。だから。
 おまえを打ったのよ。

 わたくしを、真には必要としていない男相手に。
 また、そのような馬鹿げた真似を、するとは。

 陛下にも、ダリルにも、必要とされていないのに。
 どうしてわたくしには、ふたりとも、必要なの?

 何故わたくしだけが、
 なにもかもを捧げなくてはならないの?

 それとも男とは、皆そうしたものなのだろうか。
 あのふたりに限らず。

 女に犠牲を強いて、こじ開けて、入り込み。
 根こそぎ、奪い去る。

 通り過ぎた後には、なにも残らない。
 踏みにじられて、
 草も生えない荒涼とした砂漠が、ひろがるばかり。

 こちらから。女のほうから。
 なぶりものにし、蹂躙することは不可能なのか。

 相手にするだけ、無駄だったのか。
 打ち負かされるしかない、宿命なのか。

 そんなのは、いや。
 そんな事実は到底、受け入れられない、だから。

 おまえを、打ったのよ。
【いちばん上へ】  【ひとつ上へ】







≪058≫
 あなたは美しい、と。
 皇后に、うっかりささやいてしまってから。

 水面に石を落としたように。
 ふたりの関係を、かき乱してしまってから。

 ふたたび自分が呼び出されることはないだろうと。
 ダリルは、そう思っていた。

 残念だと。
 うなだれる自分が、いた。

 あの方に、もう召されることはない、と。
 考えるたび、胸が痛んだ。

 と同時に。
 安堵の念も、たしかに。

 もう忘れよう。忘れたほうがいい、いや。
 忘れなくてはならない。

 みずからに繰り返し言い聞かせ。
 ようやく納得させられかけた頃。

 皇后に、呼ばれた。
 何故。

 また、あの日々が始まるのか。
 苦悩と悦楽に苛まれる日々が。

 嬉しいのか悲しいのか、わからない。
 わからないまま、皇后の前に参上。

 皇后を見た途端。
 むち打たれた痛みが、再生。
 鎮まりかけた胸中の暗い炎が、再燃。

「こちらへ」
 皇后に、こう呼びかけられるまで。
 ダリルのほうからは近づかないのが暗黙の掟、
 けれど。
 このときダリルは、初めて破戒。

 一言の断りも発せず、つかつかと歩み寄る。
 驚愕する皇后の顔が間近。

「わたくしの首から上には、触れないように」
 あらかじめ、そう言い渡されていたのを、
 失念したわけではなく。

 あえて、無視。
 有無を言わさず、唇を奪う。

 もがく皇后。
 ねじ伏せるなど、造作もない。

 ひたいに、耳に、頬に触れた、そのとき。
 皇后が、泣いているのが、わかった。

 一瞬ひるんだダリルを突き飛ばし、
 皇后は壁際に逃れ、そこで。
 顔を覆い隠し、崩れ落ちた。

「……首から上は、あの方が」
 洩れる嗚咽の合間、
 とぎれとぎれの言葉。

「陛下が」
 唯一、じかに、触れてくれるところなのよ、まだ。
 そこしか、ないのに。
 もう、残ってないのに。

 残ってないから、そこだけは。
 大事に、していたかったのに。

「許さないわ」
 おまえなんか。
 殺してやる。

「死にましょう」
 自分の口から出た言葉に、ダリルは驚かなかった。
 驚いたのは、むしろ、皇后。

「あなたさまが御手を汚されるまでもない。
 お望みの方法で、喜んで、
 死んでご覧に入れましょう」

 顔を上げてダリルを見上げる。
 皇后の泣き顔は、まるで幼児のよう。
 鼻の頭も、耳たぶまで、赤くなって。

 ダリルは皇后のすぐそばに、ひざまずく。
 首から上に、触れる。

 皇后の、髪をなでる。
 うなじに手をかけ、引き寄せる。
 皇后を見下ろす。まともに目を射抜く。

 許されぬ行為。

 今さら、なにが、怖いものか。
 どうせ、もうすぐ、死ぬ身で。
 不敵な笑みが口元に浮かぶ。

「これが、終わったら」
「おまえ……!」

 皇后は、震えていた。
 自分も、震えている。
 怖いからでは、ない。

 ダリルは床の上で、皇后を抱いた。
 皇后の、顔中に。
 接吻の、雨を降らせて。
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≪059≫
 一生分の精を、注ぎ込んだ。
 もう思い残すことはないほど。

 嵐が過ぎ去って後。
 ダリルはおのれの死に様を、
 あれこれと提案してみせる。

 どうなさいますか。
 この場でのどを突きましょうか?

 わたくしめはそれでも結構でございますが、
 お部屋が汚れますゆえ、
 それは避けたが懸命にございましょう。

 中庭の噴水で溺れ死んでみせましょうか?
 それとも裏手の木で首をくくりましょうか?

 情熱的に、饒舌に語るダリルに。
 皇后が、水を差す。

「……本気なの」
「無論でございますとも」

 皇后は寝台の中、
 掛布にくるまり上体を起こした姿勢。
 ダリルは寝台のふちに腰かけ、下着姿。

 胸はだらしなくはだけ、
 左肩から袖がずり落ち。

 ずり落ちた袖を直しもせず。
 皇后の頬に、手をのばす。

「もう、お怒りにならないのですか?」
「……ふ、今さら」
「さようでございますね。
 もすぐ死ぬ男に、どこをどのように触れられようと、
 構いはしますまい」

「ちがうわ」
 頬にふれるダリルの手に、皇后は。
 みずからの手を、重ねる。

「そうじゃなくてよ、おばかさん」
 ダリルの手を、みずからの唇へ近づける。

「おまえはもう、わたくしのどこに触れても、いいわ。
 だって魂の奥深くに入り込み、
 つながってしまっているのだもの。

 わたくしの身体の内で、
 おまえが触れてはいけない部分など、
 もう、どこにもないわ。

 守っても、意味がない。
 おまえはわたくしの魂を、打ち砕いて、
 虜にしたから」

 瞠目して固まるダリルを、
 面白そうに見つめる皇后。

 いたずらを思いついた子供のよう。
 ひどく、あどけない。

「わたくしのために、死ねると言いましたね」
「はい」
「では、わたくしが死ねと言わない限り、
 生き続けることは、できますか?」

「お望みのままに」
 皇后の頬を、涙が伝う。
 先刻ながした涙とは、まったく異なる涙が。

「危険な任務を負うことがありますね。
 それらをくぐり抜け、生き残って、
 わたくしが死ねと言わない限り、
 生き続けることを、おまえは誓えて?」

「誓いましょう、何に賭けてでも」
 忠誠は、
 すでに皇太后さまへ捧げておりますけれども。
 それ以外の、すべて。

 この身も、心も。
 流す涙、血の一滴に至るまで。
 ダリルは、あなたさまのものにございます。
 皇后さま。

 力が、みなぎってくるのを感じる。
 思い残すことは、もうなかったはずなのに。
 目の前の、この美しい女に。

 生きろと。
 一言、言われただけで。

 ダリルは、自分が。
 不死身になったように思えた。
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≪060≫
 あの夜から。
 逢瀬を重ね、愛を深め合い、
 幾月か、経た後。

「子供が、できたわ」
 皇后は、ダリルに告白。

「わたくし、産みたいわ」
 無謀だと、ダリルは思った。

 皇帝陛下は、皇后さまに、初夜以来一度も、
 触れていないと言う。

 なのに子供ができるなど、あり得ぬ。
 それを、どうやって、切り抜けるのか。

「産みたいわ」
 不可能だ。

「だってダリル、おまえの子よ」
 皇后の閉じたまぶたの下から、涙がこぼれ落ちる。

「おまえと、わたくしの」
 この世に、産み出したいわ。

 政治や国の繁栄や皇家の存続や。
 そんなものとは無縁の、ただ、愛の果てに。
 誕生する命を。

 たとえそれが罪だとしても。
「産みたいわ」
 ダリルは、皇后を抱きしめる。

「おまえと、わたくしの子よ」
 過酷な運命を背負わせてしまうでしょう、それでも。
 生まれて来てよかったと、思える瞬間は、
 きっとある。

 わたくしにも、あった。
 ダリル、おまえに会えて。
 始まりは、あやまちだったとしても。

 おまえを愛し、愛されて。
 生まれてきて、よかったと。
 生きてきて、よかったと。
 感じられるから。

 この子にも、祝福はきっと与えられる。
 暗闇にいるからこそ。
 一条の光が、尊いと知れる。
 知って欲しいの、この子にも、だから。

「産みたい」
「それで、実際問題として、どうなさるおつもりですか。
 わたくしめに、なにか、
 お命じになられることは、ございますか」

 なんでもする。
 この女の望みを叶えるためならば。

 そんな意志が伝わってくる。
 声から。
 触れ合う肉体から。
 その意志に、皇后は、微笑。

「皇帝陛下に、相談しようと思っているの」
 ハッとするダリル。
 思わず抱いた腕をゆるめ、皇后の顔を見つめる。

「大丈夫よ、おまえのことは話さないから」
「そのようなことは心配いたしておりません。
 いかようにお話くださっても結構でございます、
 が、しかし……」

「陛下は、わたくしを守ってくださる。
 確信があります。
 おまえは、どう思って?
 陛下は、信頼を寄せるに足るお方ではなくて?」

「無論、その点に異論など
 あろうはずはございませんが……」
「陛下は、わたくしを守ってくださる」
 皇后は、ダリルの手を握る。

「わたくしは、おまえを守るわ」
 そして、ダリルを見上げ。
「おまえは、この子を守ってちょうだい」

 ダリルは異議を唱えたりしない。
 皇后の命令、依頼に対して。
 異議など、あろうはずもない。
 それが、どれほど困難であろうとも。
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