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≪021≫
「ミリアムなんて、ありふれた名だよ」
 カイルの眉間のしわに、
 ジョルダンは気づかないのか。

「どこにでもいる、ミリアムなんて名の女は」
 不快のしるし。
 見逃すはずがあろうか、それとも。

「この宮殿の中にだって、何人もいる」
 わざと無視しているのか、それとも。

「あんたは一体何人のミリアムを抱えて」
 とめられないのだろうか、気づいていても。
 わかっていても。

「何人のミリアムに仕えられてるか、
 把握もできないだろ」
 わかっているからこそ。

「あのミリアムだけが特別だなんて、ありえないよッ!」
「ジョルダン!」

 カイルは声を荒げ、机を叩く。
 それまでも小声で呼びかけては、いた。
 ジョルダン、ジョルダン、よせ、よさないか。

 ジョルダンの耳には届かなかったか。
 届いても無視していたか、それとも。
 届いていても、やめられなかったのか。

 カイルの怒号で、ようやく沈黙がおりた。
「……いいかげんに、しなさい」
「なにをだよ」

 片方のまぶたを押さえ、静かにつぶやくカイルに。
 まだ絡み足りないジョルダン。

 隠れていないほうの目で、
 カイルはジョルダンを睨みつける。
 カイルの、空色の瞳。
 怒ると少し色が薄くなる。

 心中ひそかにジョルダンは、恍惚となる。
 氷みたい。冷たい怒り。
 ぞくっとする。怖いけど、きれい。

 滅多に見られないし、それに。
 怒ってるっていうんなら、おれだって。

「いいかげんに、しろだって?」
 猛烈に、怒ってる。

「あんたこそ、いいかげんにしてほしいね、カイル」
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≪022≫
 いつまで死んだ女のことを想ってるんだよ。

 ジョルダンを冷たく睨み威圧していたカイルの瞳が。
 驚愕に見開かれる。

 片目をおおっていた手が、机に置かれる。
 まばたきも忘れ、ジョルダンを凝視。

「おれが、知らないとでも思ってた?」
 勝ち誇ったようにカイルを、そして、
 みずからをも嘲るように、
 皮肉な笑みを浮かべながら、ジョルダンは続ける。

 おれに、そっくりなんだって?
 その、死んだ女って。
 あんたのお父上の愛人だったんだってねえ?
 でもお父上より、
 むしろあんたと仲よかったらしいじゃないさ。

 その女だけに限らず、お父上の愛人とは、
 歴代仲よかったんだよね、あんたって。
 お父上が、嫉妬するくらい。
 容易に想像つくよ。

 あんたの想ってる女は、身ごもって。
 その直後に、死んだんだよね。
 死んだってか、暗殺?

 その後あんたはお妃を娶って。
 お妃ご懐妊の最中に、おれが。
 太守からの贈り物として、やって来た。

 あんたがおれを寵愛するのは、
 おれがその女に似てるからだって。
 ずいぶん昔から、聞かされて知ってたよ。

 あんた周りの人間を、その引力でどれだけ縛りつけ、
 ふりまわしてるか、本当のところ、わかってないんだろ。

 あんたに焦がれ、トチ狂った連中の、
 恨みや妬み、悪意のつぶてを、
 おれがどんなふうに受けてきたか、打たれてきたか、
 かわしてきたか、耐えてきたか、わかってないんだろ。

 今さら驚いてるあんたをみれば、
 どれくらいわかってなかったかが、よくわかるよ。

 支配者って、そういうもんだよね。
 あんただけに限った話じゃない。
 おれはあんたより百倍も苛烈な太守のもとで、
 生き延びてきたんだもんよ。

 ホントに、無慈悲なくらい鈍感にできてるよね、
 あんたたちってさ。

 まあ、それはいいよ。
 死んだ女をおれに重ねて、おれを可愛がるのも、
 いいさ。
 まだ、我慢ができる。

 おれが許せないのはね。
 あんたがおれから、他のヤツに心を移すことさ。
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≪023≫
 あんまりじゃんかよ。
 今さら、そりゃあないぜ。

 あんなガキに。
 あいつはオンナってだけで。
 このおれが。
 負けるわけ?

 ジョルダンの口調が、表情が、悲哀を帯びる。
 カイルは、目を伏せた。
 ジョルダンを、見ていられない。

「ねえ、おれはどうなるの?」
 机に両手をつき椅子に座ったカイルを、
 仁王立ちで見下ろしながら。

 見下ろしながら、すがりつくまなざし。
 途方にくれた、迷子のよう。

『追いおとされるの?
 捨てられちゃうの?

 この宮殿には、いられるの?
 いられたとして、いられたとしても。

 皇帝の寵愛を失った側近として。
 宮廷中の笑い者として、道化として。

 生きていかなきゃ、ならないの?』

 そこまで訊けない。
 おそろしくて。

「ジョルダン」
 カイルの呼びかけに、心臓が凍りつく。

 次の言葉は、死刑宣告。
「……すまない」
「謝んな、ばかッ!」

 先刻、使者が置いていった書類の束をひっつかみ。
 カイルに向けて、投げつける。

 四十枚は、あったろうか。
 カイルはあえて、それをよけなかった。

 紙切れが、部屋中を舞う。
 床に落ちきる前に、ジョルダンは部屋を飛び出す。
 激しい扉の開閉の音で、それと知れる。

 扉を守っていた衛士が、
 飛び出していくジョルダンの剣幕に、度肝を抜かれる。
 どうしたことかと、執務室をのぞくと。

 皇帝が。
 床に散らばった書類を、一枚ずつ拾い上げていた。

「へ、陛下、そのようなことは、わたくしが」
「いいよ、きみは持ち場に戻って」

 慌てて駆け寄ろうとする衛士を、カイルは、
 こともなげに制する。
 床に落とした視線を、あげようともせずに。

「し、しかし……」
 なおも戸惑う衛士に、向き直って。
「いいから。きみは自分の持ち場に戻っていなさい」

 床にひざをついたままのカイルに。
 衛士は圧倒されてしまう。

 一礼をして、引き下がらざるをえなかった。
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≪024≫
 夜が更けてから、ティエリー導士の管理する神殿に。
 神殿と称するのもはばかられる、粗末な建物に。
 カイルは足を踏み入れる。

 そこに導士の姿はなく、巫女だけが、いた。

 礼拝をすませたところ。
 祭壇とその周りに点々と灯る蝋燭の炎を、
 順番に吹き消していた。

「あ、いらっしゃい」
 入り口にたたずむカイルを認め、ひとなつこい笑み。

 蝋燭を吹き消す作業を一旦中止し、
 蜀台の蝋燭に炎を移し、
 それを捧げ持って踏み台から降り、カイルへと近づく。

 踏み台にあがらないと、背が届かないのだ。

「こんばんわ。どうぞ、入って入って」
 カイルの手を取り、椅子まで導く。
 巫女の頭は、カイルの胸にも届かない。

「こんな夜中に、突然たずねて、すまない」
 遠慮がちなカイルに。

「いいのよ、座って。のみもの持ってきましょうか?
 おいしいぶどう酒があるのよ。飲んでみたくない?
 ねえ、飲んでみたくない?」

 巫女は瞳が、きらきら。
 ふるまいたくて仕方ない様子。

「あ……じゃあ、もらおうかな」
 とても拒める雰囲気ではない。

「はい。かしこまりました」
 精一杯おすましをして、優雅にひざを折ってから。
「ちょっと待ってて」
 ぱたぱたと祭壇の奥へ、消えていく。

 カチャカチャと杯や盆を整える気配。
 時々、ガタッ、ガタガタッと不穏な音が。
 心配になったカイルが、祭壇の奥の小部屋を、
 おそるおそる、覗き込む。

「巫女どの、大丈夫かい?」
「しーッ!」
 巫女は自分のくちびるに指をあて、
 カイルの言動を制止。
 自分の立てる物音のほうが、よっぽど大きいのに。

 いいから、あっち行ってて!
 そんな意志がはっきり伝わる仕草で、
 カイルを追い払おうとする。
 シッシッと、皇帝をまるで野良猫のごとき扱い。

 カイルは自分の口をふさぎ、数度細かく頷きながら。
 もう一方の手のひらを巫女に向けて、なだめ。
 その場をすごすごと、退散。

 カイルは、自問。
 何故おれは、こそ泥みたいに猫背で、忍び足なんだ?

 椅子に腰掛け、少々ぐったり。
 どうも調子が狂うなあ。

 この調子の乱されようは。
 いつかどこかで。
 ごく親しい間柄でも。
 発生していたような気が。

 だれを連想したかは、すぐに思い当たる。
 相手は、ジョルダン。

 カイルは、頭を抱えた。
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≪025≫
 ほどなく巫女が姿を現した。
 手に杯が乗った盆をさげて。

 慎重な足運び。
 顔つきは真剣なあまり、無表情。
 からくり人形の如き危うさ、ぎこちなさ。

「やあ、これはどうもありがとう」
 カイルは大急ぎで立ちあがり、大股で巫女に近づき、
 盆から杯を取り上げる。

 溺れる者を救出する勢いで、手早く。

 巫女は目と口をいっぱいに開けて、カイルを見上げる。
「あたし、そっちまで、ちゃんと運べたよ」
 あからさまに、不満げ。

 とてもそうは見えなかったよ。
 おれのもとへたどり着くまでに、絶対こぼすか、
 おっことすか、してたよ。
 それはもう、まちがいなく。

 ヘタしたら、おれの頭に、ぶちまけてたろう。
 そんな予感がした。すごくしたんだ。
 咄嗟にこう言い返したくなるのを、こらえて。

「うん、それはそうだろうけど、おれのほうが、
 待ちきれなくてね。
 先刻まで、そうでもなかったんだけど、
 急にのどが渇いたんだ。
 持ってきてくれたこれが、おいしそうだったからかな」

 巫女は、まだ疑わしげ。
「……行儀わるかったかな。ごめんよ?」
 カイルが、こう言い足すと。

「別に、いいけど」
 口をとがらせて、そっぽを向く。

 この言い草。
 いつかどこかで。
 ごく最近も。
 身にしみて、カイルには覚えが。

 相手は、ジョルダン。

 カイルは軽いめまいに襲われ。
 それを振り払うかのように。
 杯の中のぶどう酒を、一口のどに注ぎ込む。
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≪026≫
 カイルが杯から口を離すと、すぐ。
 巫女と目が合った。

 巫女は盆で口元を隠し、カイルを見上げている。
 強調された、大きなすみれ色の瞳が、
 カイルを、凝視。

 カイルは口にふくんだぶどう酒を、ごくりと飲み下す。
 巫女の聞きたがっている言葉を発するため。

「うん、うまい!」
 カイルの目は、笑っていない。
 本当は味など、ろくに、わからない。
 巫女の機嫌を取るのに、必死で。

 どうか通じてくれ。祈りにも近い切迫感。

 どうやら通じたようだ。
 巫女は盆をおろす。満面の笑み。

 カイルは胸をなでおろす。
 ようやく及第点をもらえた、できの悪い生徒の気分。
 満面の笑みをたたえた巫女の、次の言葉を聞くまでは。

「もう一杯、いかが?」
「いや、けっこう」

 反射的に断ってしまった。
 巫女は傷ついた表情になる。

「ま、まだ残ってるから」
 杯をあげて見せながら、こう付け加え。
 くるりと背を向け、椅子まで戻る。

 いつまでも立ち話をしているから、いけないんだ。
 ますます調子を狂わされるんだ。
 カイルはそう結論づけたのだった。
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≪027≫
 カイルが椅子に腰かけるのを見届けてから。
 巫女も、その隣りに座る。

「それで?」
「うん?」

 巫女の問いかけに、カイルは生返事。
 相当、くたびれている。

「なにかご用があって、いらしたんではないの?」
「あ」

 なんだよ「あ」って。
 そう思っているのが、手に取るようにわかる、
 巫女の表情。

「なんだかもう、どうでもよくなってきたよ」
 カイルの本音。

「……そういうひと、多い」
「え?」

 巫女の返答に、虚をつかれる。
 巫女は視線を落とし、足をぶらぶらさせて続ける。

「なにか相談があってきたのに、ちがいないのに。
 もういい、どうでもよくなったって言って。
 笑いながら、帰るの」

「ぷっ」
「なにが、おかしいのよ」
「あ、ごめん」

 謝って、一時、神妙にしてみたものの。
 結局、カイルはまた、吹き出してしまった。

「ご、ごめん、本当にごめん。
 決して悪気じゃ、悪気じゃないんだよ、くっ、くくく」
 こらえきれず、大爆笑。

「いいよ、もう」
 巫女の許しを得るまでもなく。

「すきなだけ、笑いなさいよ」
 カイルは気がすむまで、笑い転げた。

 カイルの高潮とは裏腹に、とことん白けた巫女の様子が。
 なんともとぼけた感じで、それが一層おかしくてならない。

 肩で呼吸し、疲労困憊。

「おちつきましたか?」
「うーん、落ち着いたというか、毒気を抜かれたというか」

 巫女の問いかけには、とっさに本音を答えてしまう。
 ごく自然に、口をついて出てしまうのだ。

 とりつくろうことが、できない。
 油断してついうっかりとカイルは洩らしてしまう。

「やはり、どう考えてもまずいだろうな、こういうの」
「どういうの?」

「きみに、恋をしてしまうことさ」
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≪028≫
 巫女は、もともと大きな瞳を倍ほども見開く。
 見開き、瞬き、見開き、瞬きを、せわしなく繰り返し。

「すごい直球を投げてよこすよね、カイルって」
 カイルは我に返り、そして。

 血の気が引いた。
 真っ青になった。文字どおり。

「いまの話は忘れてくれ」
 慌てて立ち上がり、逃げ出そうとするから。
 カイルは足を、しこたま椅子にぶつけてしまったが。

 ぶつかって歪んだ椅子を直すこともせず、
 床に落ちて転がる杯も、拾おうとせず。
 足早に、出口の扉へ向かう。

「まちなさいよ、ひきょうもの!」
 巫女の怒号が、カイルの動きを封じる。

 鈴をふるような澄んだ高音で、おまけに、
 舌足らずなものだから。
 それほどの迫力もなかったのだが。
 カイルは、動けなくなった。

 巫女も、立ちあがっていた。
 腰に手をあてている。

「こっちを、向きなさい!」
 巫女の命令に、カイルは逆らえない。

「ここへ来て、もういちど座って」
 カイルがぶつかって歪ませた椅子の位置を直し、
 背もたれを軽く叩く。

 カイルは、逆らえない。
 年端も行かぬ少女を相手に、逆らえぬ。
 従うほか、ない。

「いまの話は、忘れてくれ?」
 うなだれるカイルに、横柄な口調の巫女。

「忘れられるわけ、ないでしょ。
 乙女に、こんな告白をしておいて。
 忘れてくれ、って言い捨てて、逃げるの?」

「うううう」
 ぐうの音も、出ない。

「そんなことが、ゆるされると思っているの?」
「ううう」
「それが、一人前の男の、やることなの?」
「うう」
「こうなったら、きちんと責任をとってもらうわ」
「え?」

 カイルは顔を上げて、巫女を見た。
 ふざけているのか、真面目なのか、
 判断のつきかねる表情で、仁王立ちしている、巫女を。

「せ、責任って、どんな」
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≪029≫
 巫女は、高らかに宣言。
「これからも時々、顔を見せに、ここへ来て」

 カイルは呆気に取られ。
 そんなカイルを、巫女は置き去りにして続ける。

「皇帝陛下はお忙しいでしょうから、毎日とは言わないわ。
 あたしに会うには、ふつう予約がいるんだけど、
 カイルはあたしの想い人だから、予約はなくてもいいわ。

 でも私も、こう見えて、そんなにひまな身じゃないから、
 もし会えなくっても、
 そのときは我慢してもらわなきゃいけないわ。
 そこのところは、お互いさまね」

「ち、ちょっと待ってくれ。ちょっと、いいかな。
 聞きたいことが、あるんだが」

「いいわよ。なあに?」
「おれは、ここに来て、一体なにをすれば良いんだい?」
「お話よ」
「話?」
「そうよ」
「それだけ?」
「あら」
 巫女の次の言葉を聞いて、カイルは椅子から転げ落ちた。

「話だけじゃご不満なの、皇帝陛下?
 じゃああなたはあたしと、話以外の、
 一体なにがしたいの?」

 床に尻もちをついたカイルのそばに、しゃがみこんで、
 さらに。

「あたしと話以上のなにかを、したいの?
 今すぐ、ここで?」
「めめめ、滅相もない」
 カイルは、あとずさり。

「じゃ、そういうことで、これからもよろしくね、カイル」
 にっこり笑って、巫女はカイルに右手をさしのべる。

 カイルは尻もちをついたままの格好で、その手を取り。
 手の甲を上に向けさせ、そこに接吻。
「よろしく、巫女どの」

「あら、その呼びかたは、だめよ」
 カイルの接吻に、動じもしない。

 カイルに口づけられて、
 ときめかない女性など、いなかった。
 これまで、一人とて。

 なにからなにまで調子が狂う。
 勝手がちがう。
 こ、子供だから、なのかな、まだ。

「呼び方にもダメ出しくらうのか、おれ」
 少なからずがっかりして、カイルはつぶやく。
 片手でひたいをおさえて、うなだれる。

「だって恋人どうしなのよ、あたしたち」
 え、いつから。今から?
 今もうすでに、そうなのか?
 カイルは、戸惑うばかり。

「恋人どうしは、名前で呼び合わなくっちゃね」
 ハッとする、カイル。
「あたしのことは、ミリアムって呼んで」

 ハッとして固まったカイルの肩に、頭をあずけ。
「ミリアムって呼んでよ、カイル」

 あなたにそう呼ばれるために、あたしは。
 うまれて、きたんだから。
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≪030≫
「あ」
 神殿の扉を開けて、カイルとミリアムが、
 外に出て来たとき。

 白い愛馬を従えたジョルダンを、
 先に見つけたのは、ミリアム。

「ジョルダン……」
 呼びかけたのは、カイル。

「こんばんは、陛下」
 ジョルダンの背後から声をかけてきたのは、
 ティエリー導士。
 カイルの黒馬を、引き連れて。

 気性の激しいカイルの愛馬をなだめるのに、一苦労。
 見かねたジョルダンが、もう片方から手綱をおさえる。

 見知らぬ導士よりはジョルダンのほうが、ましと見え。
 黒馬は、いくらか落ち着きを取り戻す。

「陛下の馬をお預かりしておりましたよ。
 そして、麗しき側近も」

 導士はジョルダンに目配せ。
 それに釣られてカイルとミリアムも、ジョルダンへ、
 目を向ける。

 他人の視線など、普段は気にも止めないジョルダンだが。
 相手は主人と、唯一の友人と、恋敵。
 一斉に見つめられると、さすがにバツが悪い。

「……もう用は、済んだんだろ」
 黒馬の歩を進ませ、カイルに手綱を押しつける。

 だれとも、視線を交わさない。
 ふてくされた口元。
 不思議そうに見つめるカイルにだけ、ちらっと目をあげ。

「なんだよ。おれはあんたの側近だぜ。
 勝手に夜の城下を、
 一人歩きなんかされたら困るんだよ、皇帝陛下」

 言うだけ言って、さっさと立ち去る。
 表門まで行ってから馬に飛び乗り、一同を振り返る。

 はやく来なよ、カイル。
 催促する、まなざし。

「一体ジョルダンと、どんな話をしたんだね、導士?」
 導士にそっと耳打ちして、訊ねるカイル。
 信じられない豹変ぶりに、戸惑う。

 たしかにジョルダンは気まぐれで、
 ころころと気分が変わりやすい性質だが。

 あんなに怒っていたのに。
 迎えに来てくれるなんて。

 上機嫌とは言えないまでも。
 感情を律する態度で。

 なにかこの導士が、
 説教でもしてくれたのにちがいないと。
 そう推測して、カイルは訊ねたのだが。

「べつに、どうということはない、
 友人同士の雑談ですよ、陛下」
 導士はカイルの質問を、さらりと交わして、ほほえんだ。
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≪031≫
 人をはじいたら、はじかれますよ。
 それは自然の、法則ですし。

 巫女を相手にするなら、なおのこと。
 彼女は自然の、申し子ですから。

 彼女を、はじこうとしたら。
 あなたのほうこそ、はじかれてしまいますよ、ジョルダン。

 陛下のそばに、居たいのならば。
 彼女を排除するのは、あきらめることです。

 あの夜、導士はジョルダンに、こんな話をした。
 導士いわく、どうということはない友人同士の、雑談。

「じゃあどうしろって言うんだよ!」
 ジョルダンは、くってかかる。

 はじくとは反対の対応をするのです、つまり。
 受け入れること。

「ゼッタイやだ!」
 ……では、せめて、認めるところから始めてみては?

「なんだよ、みとめるって」
 よくご覧なさい、彼女を。
 観察するんですよ。

 すれば、わかります。
 彼女が、どんな存在か。

「…………」
 不満げに爪を噛み、思案顔でうつむくジョルダンに。
 導士は、問いかける。

「まだ、ほんの幼い少女ですよ、相手は。
 なにをそんなに怯えているのですか?」
「べ、べつにだれも、怯えてなんかないだろ!」

「そうですか?」
 試すような、見透かすような導士の口調に、
 カッとなって顔をあげたジョルダン、
 その目に飛び込んできたのは。

 柔和な微笑。

「それはよかった。
 では、できますね。
 彼女を見つめることくらいは、わけもなく」

 嵌められた、と感じたときは既に遅く。
「お、おう、そのくらい、昼メシ前さ」
 こう強がった後だった。

 それから数日後。
 ジョルダンは沈痛な面持ちで、神殿を訪れ。
 ミリアムの前に、立っている。

 ミリアムの前に立ち、ミリアムを見下ろしている。
 ミリアムは肩幅に両足を開いて立ち、
 腕組みをして、あごを上げ、ジョルダンに向け、言い放つ。

「あたしをまるで珍獣みたいな目で見るのは、
 やめてくれないかしら、ジョルダン?」

 珍獣じゃねえかよ。
 とっさにこう言い返したくなるのを、かろうじて、こらえ。

「カイルは今日、来ないぜ。
 手紙をあずかってきた、これだ」

 邪険に、封書を突き出した。
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≪032≫
「うわあ、ありが……」
 ありがとう、と言って手紙を受け取ろうと、
 ミリアムは、手を差し伸べたのに。

 ジョルダンは、手紙を持った手を、
 天高く、上げてしまった。

 あ。
 自分でも、これはまずい、どうかしてるぞと思ったが。
 あまりにも素直にミリアムが喜びを表現したので。

 癪にさわった、その瞬間。
 手紙を、ミリアムの手が届かないところまで、
 掲げてしまったのだ。

「……ジョルダン」
 ミリアムは手を差し出したまま。

「あんまり子供っぽい真似は、しないでくれる?」
 子供に「子供っぽい」と言われて、さらにムッとする。

「渡しなさいよ、さっさと」
「やなこった」
 子供っぽさが、というより大人げなさが、増すばかり。

「取れるもんなら取ってみろ……いてッ!」
 ジョルダンは、ひざから崩れ落ちた。

 ミリアムが、回し蹴りを食らわせたのだ。
 ジョルダンの、ひざの後ろを狙って。

「こ、このガキ、なにしやがる」
「素直に渡さないほうが、いけないんでしょ。
 まったく、お使いもまともにできないの?
 困ったボクちゃんだわ」

 痙攣するジョルダンの指先から、封書を抜き取り。
 うずくまるジョルダンからは手の届かない窓辺へ。
 優雅で気ままな蝶のようにひらひらと避難してから。
 封を解く。
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≪033≫
 ミリアムは窓を背にし、油断なく。
 封書とジョルダンを正面から無理なく捉えられるように、
 視線を構える。

 その心配は、なかったが。
 ジョルダンは、すっかり戦意を喪失。
 床に座りこんで、あぐらを掻き、頬杖をついて、
 あさってのほうを向き、
 すっかり、ふてくされている。

 ほう、と洩れたミリアムのため息に誘われて、ようやく。
 ジョルダンはミリアムのほうを、向く。

「カイルの字って、素敵よねえ」
 うっとりと紙面を、ながめて。

「流れるようになめらかで、でもきっぱりしてるの。
 気取りがなくて、読みやすくて、
 でも乱暴でも失礼でもない。
 全体に少し大きめなのは、ご愛嬌ね」

 なに言ってんだ、字が素敵なんて、そんなの今さら。
 だって、カイルだぜ。
 綴る文字も言葉も韻律まで、完璧に決まってる。

 書いてる姿、見たことないだろ。
 ほれぼれするぜ。

 姿勢を正し、呼吸を整えて。
 書き文字はさらさらと、意外に早いんだ。
 なにせ、多忙だから。

 でも、勢いにまかせた字には、ならない。
 とめ、はね、きちんと心にとめてる。
 心を込めてるから、読む者の心にも残る。

 一気に胸の内でジョルダンは、まくしたてたけれども。
 口に出すのは、思い止まった。
 自慢したい気持に、歯止めが。

 自分の知っているカイルの姿を。
 まだ知らないミリアムに教えてやるなんて、
 もったいない気が、したし。それに。

 苦い真実にも、思い至ってしまったから。

 自分が持ってきた、封書。この中には。
 カイルの、どんな思いの丈が、心が。
 こもっていることか。

 くやしい。

 届けないで、破り捨ててやればよかった。でも。
 そうできないのも、わかっていた。
 カイルは、裏切れない。

 裏切ったと知れたときの、カイルの反応なんて。
 おそろしすぎて、想像もしたくない。

「すぐお返事を書くから、待ってて」
「やなこった、おれは帰る」
 ジョルダンは立ちあがり、戸口へと向かった。
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≪034≫
「ええーッ、それはないでしょ、
 ちょっと待ってよジョルダン!」
 ミリアムは、あわててジョルダンに駆け寄り、引き止める。

「なによう、さっき蹴ったから怒ったの?
 でもでもだって、あれはジョルダンが、
 先に意地悪したから、いけないんだよ!」

 ばかやろう、そんなお気楽な理由か。
 もっとフクザツなオトナの事情だ、こんちくしょうめ。

「あたしからのお返事を持って帰らないなんて、
 片手落ちだよ。
 カイル、がっかりするんじゃないかなあ。
 ジョルダン、カイルに怒られちゃうかもしれないよ?」

「おれはそんなことでカイルに怒られたり、しないんだよ。
 どけよ、そこ」
「どうしても、いま帰るの」
「そうともさ」
「じゃあ、あとから、あたしがお返事もって、
 お城へ乗り込んでいくけど、それでもいいの?」

 うッ、と一瞬、返答に窮するが。
 直後にジョルダンは、冷笑を浮かべて切り返す。

「おまえなんか、門の中へ入れてもらえるもんか」
「あら、そう」
 今度はミリアムが、冷笑を返す。

「なら、試しにやってみましょうか。
 面白いよね。いっそ、なにか賭けてみる?」
 一歩も引かないミリアム。
 一瞬どころでなく、言葉につまるジョルダン。

 なんだ、こいつは。
 どこから湧いてきてるんだ、この絶大な自信は。
 不気味な。

 珍獣だ。
 やっぱりこいつは、珍獣なんだ。

 なにをしでかすか、わからない。
 本当に、城門の中へ入って来ちまうかも。
 いや、もっと怖いのは。

 無理やり、押し通ろうとして、
 最悪、殺されたりしたら。

 カイルは、どんなに嘆くだろう。
 おれはカイルに、なんて思われる?

 そこまで考えて、身震い。

「……そんなには、待たないぜ。早くしろよ」
「ありがとう!
 まあそう言わず、ゆっくりしてってよ。
 いま、お茶をいれるから」

「茶なんか、いらねえよ」
「ぶどう酒のほうがいいの?
 だめよ、ゆうべも飲みすぎたでしょ」
「な、なんでそれを!
 おおお、おまえ、なんで知ってるんだよ!」

 とっさに言い返してから、ハッとして口をおさえたが。
 もう遅い。
 ふん、と鼻をならして、ミリアムは答える。

「薔薇の香水ふりかけたくらいじゃ、
 あたしの鼻は、ごまかされないわよ。
 あたし、五感がするどいの。あ、第六感も、
 もちろん発達してるんだけどね、えへへ」

 さすがは珍獣だな。

「なにか言った?」
「なにも言ってねえよ。
 ああ、もういいよ、茶でもなんでも、好きにいれろよ。
 そんで早く返事を書け。早くしろよ」

 珍獣につきあうのは、疲れる。
 カイルは一体、こんなヤツのどこがいいんだか。
 観察しても、向き合っても、
 さっぱりわかんねえよティエリー。

 ジョルダンは、ぶつくさ言いながら、椅子に腰かける。
 ぐったりと背もたれに、背をあずけて。
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≪035≫
 ジョルダンは、椅子に腰かけ、茶をすする。
 結局、自分でいれた、茶を。

 たかが茶を一杯いれるだけとは到底、思えない物音を。
 ミリアムが、台所で立てるので。
 覗いてみたら。

 たかが茶を一杯いれるだけとは到底、思えない惨状が。
 ミリアムはジョルダンを追い払おうと手を振ったが。

「おまえ、飲めるシロモノちゃんと作れるのかよ!」
 身の危険を感じたジョルダンには、通用しなかった。

「うわ、なんだこれ、ゲロまず」
 ドス黒く濁って、泡と湯気を鍋の縁から、
 ブクブクとこぼす液体に、小匙をつっこみ、
 おそるおそる口をつけた後、
 ジョルダンはこう言って、顔をしかめた。

「薬湯よ」
「薬湯だと?
 おれに薬湯のませようとしたのか、てめえ!」

 薬湯。
 それはジョルダンにとって、
 思い出したくない過去へと直結。

「ふ、二日酔いの薬湯よ。
 お茶の、一種だよ。
 ジョルダン、あたま痛いんじゃないの。

 あたし、具合わるいひとが近くにいると、わかるのよ。
 自分も、具合わるくなるから、だから……ごめんなさい、
 もっと飲みやすいのに、作りなおすから、
 今すぐ作りなおすから、ごめんなさい、
 そんなに怒らないでジョルダン、おねがい」

 ミリアムの声が、震えている。
 ハッと我に返る、ジョルダン。
 ミリアムの手も、震えている。
 ジョルダンは、それに気づいた、そして。

 激しい後悔の念に、駆られた。

「……湯、足してみろよ」
 もう怒ってないよ、怒鳴って悪かったよ、
 そう言うかわりに。
 ジョルダンは、助言を。

「それと、蜂蜜ないか。
 甘味で誤魔化せば、なんとかなるだろ。
 あ、待て、おれがやる。
 湯を貸せ、蜂蜜はどこだ」

 結局は、自分が仕切ってしまった。
 濃度は薄まったが、分量は、倍に。

「連帯責任だ、おまえも飲め」
 湯呑みをふたつ、ミリアムに持って来させ。
 ひとつを自分の口に運び。
 もうひとつをミリアムに向け、突き出す。

「あ、おいしい」
「だろ?」
 ひとくち味見をして、微笑をかわす二人。

「あっちで、ゆっくり飲もうよ」
「そうだな、そうするか。
 あ、待て、盆を持って来い、おれが運んでやるから」

 まったく。
 なんで、こうなるんだかなあ。

 椅子に腰かけ、ジョルダンは茶をすすり。
 うーん、うううーんと、唸りながら、
 紙に向かうミリアムを、ながめ。

 書き終わるのを、辛抱強く、待っている。
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≪036≫
「きみ、いつのまにジョルダンと親しくなったの?」
 それから、さらに数日後。
 ミリアムのもとを訪れたカイルは、開口一番。
 ミリアムに、こう訊ねた。

「ええーっ、べつに、
 そんなに親しくなんかなってないわよ。
 どうしてそんなこと、聞くの?」

「だって先刻、ジョルダンはきみに、なにか、
 耳打ちしていただろう。
 彼はなにを、ささやいて行ったんだい?」

「ああ、あれはべつに、なんでもないのよ」
 ジョルダンはミリアムの耳のそばまで、かがみこんで。
 こう、ささやいて行ったのだ。

 あの茶をカイルにふるまってやりなよ。
 一発で目がさめるぜ。
 ついでに百年の恋もな、さめるだろうよ。

「もうッ、うるさいわね、
 いいからさっさとあっちへ行きなさいよ。
 導士さまと話でもしてきたら?」
 カイルの耳まで届いたのは、ミリアムの、この反論だけ。

 ミリアムは、ほっぺたを赤くして、
 ジョルダンをぶつ真似をしたし。
 ジョルダンのほうも、ミリアムからそんな反応を引き出して、
 まんざらではない風情で、
 あっさり退散していったものだから。

 カイルが不思議に思っても、無理はない。

 内心、一瞬、かるく嫉妬心まで。
 ミリアムの耳元にかがみこんだジョルダンは、まるで。
 ミリアムに接吻したかのようにも、錯覚できたから。

 まあ、なんにせよ、よかった。
 カイルは同時に、安心も、した。

 仲たがいするよりも、仲良くなってもらったほうが、
 ありがたいには、違いなかった。

 ミリアムとジョルダンの関係は。
 もっと陰湿で、殺伐としたものになるのではと、
 危惧していたから。

 ミリアムはともかく、ジョルダンのほうが。
 かなり、いきり立っていたので。
 どうなることかと、はらはらしていた。

 なにかあったとすれば、あの日しかない。
 ミリアム宛ての手紙を持たせて、
 ジョルダンに使いを頼んだ、あの日。

 あの日に、一体なにがあったのか。
「どんな魔法を使ったんだい、巫女どの?
 ジョルダンの、きみへの態度があんなに軟化するなんて、
 ちょっとすぐには信じられないよ」

「あら、魔法なんてなにも使ってないわ。
 それに、あたしとジョルダンは、
 本当にべつになにもそんなに親しくなんかなってないわ。
 どうしてカイルがそんなことしつこく言うのか、
 まったく、わからないわ」

 ミリアムは、頑固に言い張る。

 ジョルダンいわく「ゲロまず」な茶の一件など。
 みずからすすんでカイルの耳に入れるつもりは。
 毛頭、ない。

「それよりカイル、またまちがってる。
 あたしのことは名前で呼んでって、まえにも言ったよ?」
「あ、ああ、うん」
 咳払いをして、バツの悪さを緩和しようとするカイル。
 
 一事が万事、この調子。
 歴代随一の賢帝と謳われるカイルが。
 こんな小娘に。

 さっぱり頭が、あがらない。
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≪037≫
「だって、ご婦人を名前で呼んだことは、ないんだよ」
 カイルは渋々、白状。
 ミリアムが不思議そうに訊ねる。

「今まで、一度も?」
「そうさ」
「うそでしょ」
「うそじゃないよ」
「女ともだちって、カイルには、いないの?」
「友達……うーん、友達は……いない、かな?」
「……カイルの周りには、女のひとが、いないの?」
「いるよ」
「そのひとたちは、おともだちじゃないの?」

 カイルは、考え込んでから。
「友達では、ないな」
 こう結論を出した。
 ミリアムはまた不思議そうに訊ねる。
「おともだちじゃないなら、じゃあ、そのひとたちは、
 カイルの、なんなの?」

「そうだなあ……食事や着替えの用意とか、そういう、
 身のまわりの世話をしてくれる人たちが大勢いるね。
 でも、その人たちは、平たく言うと、雇っているからね。
 働いてもらっているから、友達ではないんだな。
 義務も責任も、お互いに負っているし。
 友達という響きから感じる、対等さも気楽さも、ないね」

「ふうん……じゃあね、家族は?」
「家族?」
「そう」
「妃のことかい?」
「そう。名前で呼ばないの?」
「呼ばないよ」
「どうして?」
「どうしてって……どうしてかな。
 そういう習慣がないから、かな?」

「奥さんなのに?」
「奥さんにも役職があるからね。
 后妃という役目が。
 その点は、おれの周りのどのご婦人とも変わらないな。
 そうだな……そう言えばおれは、
 たいていの人を肩書きで呼んでいる。
 ご婦人だけじゃない。
 おれが名前で呼ぶのは……なんてことだ」

 カイルは一瞬、絶句。
「おれが名前で呼んでるのは、人間ではジョルダンだけだ。
 愛馬は名前で呼んでるんだけど……しまった!
 馬並みの扱いだなんて知れたら、
 機嫌悪くなることは間違いないから、
 今の話はジョルダンには内緒にしておいてくれないか」

 カイルは本気で困惑している。
「言わないわよ、それより」
 ミリアムは、呆れ顔。
「逆も、ありでしょ」
「え?」
「カイルのことを、カイルって名前で呼んでるのは、
 ジョルダンとあたし以外に、だれかいる?」
「あ」
「カイルを名前で呼べるの、
 この世でふたりしかいないわけね。
 ふたりめで、光栄だわ、ふん」

 ふん、て何だよ。
 そう思ってカイルが改めてミリアムを見ると。
 ミリアムはあきらかに、ふてくされていた。
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≪038≫
「ど、どうしたの」
 カイルが、あわてて訊ねる。
「なにが」
 ミリアムは、とぼける。

「ずいぶん、鼻息が荒いけど」
「そう?」
「鼻の穴、ふくらんでるよ」
「あたしの鼻の穴は、もともとこんなものよ」
「そうだったかなあ」
「そうよ」
「目がすわって、下くちびる突き出てるけど」
「…………」
「もともと、こんなものだったっけ?」

 少しおどけて、カイルはミリアムの顔を覗き込んだが。
 すわったままの瞳に、正面から睨み返され。

 ミリアムへと傾けた身を、軽い咳払いとともに引く。
 引きながらカイルは、
 これまでの話の流れを胸の内で反芻。
 結論を、はじき出す。

「もしかして、ジョルダンにやきもちを妬いてるの?」
 ミリアムは、答えない。
「おれの奥さんには、妬かないの?」

 やぶへび。

 気づいたときには、遅く。
 猛烈な鼻息とともに肩が上下。
 ミリアムの両頬は、ぱんぱんにふくれた。

 途方にくれたカイルは、なにを思ってか。
 おそらく、
 ぱんぱんにふくれたミリアムのほっぺたに誘われてか。
 ふくれた頬を両側から左右の人差し指で、突っついた。

「なにするのよ!」
「ああごめんごめんごめんつい」
 本気で怒られるとは、予想外。
 ミリアムは両腕をそれぞれ風車のようにふりまわし、
 カイルの胴を、メッタ打ち。

 少女の腕力だ、そう痛くはないが。
 勢いにおされて、戸口へ後退。
 後退しながらも、カイルの口元には、笑み。

 しかしミリアムに見られては一大事。
 怒りの炎に油を注ぐは、必至。
 用心深く、顔面をそむける。

「もう、今日は帰ってちょうだい」
 最後のとどめとばかり、
 ミリアムはカイルを戸口へ押しやる。

「え、うそ、うそだろ」
「うそじゃないわよ、帰って。
 これから、ひとと会う約束があるのよ」
「そんな、うそだろ」
「うそじゃないったら。しつこいわね」

 カイルを突き放し、ニヤリと笑い。
「今度、また来て」
「本当に、来客の予定があるの?」
「だからそうだって言ってるでしょ、ほら」
 カイルを押しのけ、戸を開けると。

「……ごめん、早すぎたかな」
「ううん、そんなことないよ。
 このひとはもう帰るところだから、ね?」
 最後の「ね?」はカイルにむけて。
 他の言葉は、廊下にたたずんでいた来訪者に対して。

 ね、ホントだったでしょ?
 カイルにあごを突き出してみせるミリアム。
 カイルは。

 来訪者を見て、凍りつく。
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≪039≫
 来訪者は、漆黒の巻き毛。
 紫の紐で、ひとつに束ね、左肩から胸へと垂らし。

 勝気そうな眉、翳りを帯びたまなざし。
 路地裏で生き延びる仔猫のようにおどおどと、
 それでいて油断なく相手を、カイルを、値踏み。

 その瞳は左右が異なる色。
 右が翡翠、左が琥珀。

 その面差しは、
 皇太后に、そして皇后に、
 生き写し。

「カイル、彼女もミリアムっていうのよ。
 年もあたしと近いの。
 こっちのミリアムのほうが半年くらい、
 おねえさんだったかな。
 読み書きをお勉強にきてるの。
 ミリアム、このひとは……」

 カイルの動揺に気づかないのか、ミリアムは。
 無邪気に来訪者を紹介。

「え……カイル?
 カ、カイルって、あの……ッ!」
 来訪者ミリアムの口が開く。

 こうていへいか。
 口はこう動くが、声が出ない。

「じゃあ、おれはこれで。
 また来るよ、日を改めて。
 そちらのお嬢さんも、ごきげんよう」

 声はかけたものの、黒髪のミリアムには目をくれず。
 カイルはふたりの少女を残し、風のようにその場を去る。

「ジョルダン!」
 よく通る声で、側近を呼ばわる。
 足は止めない。

「え、なに、もう帰んの?」
 台所からジョルダンが顔を出す。
 導士にふるまわれたのであろう、呑気にも。
 菓子パンを口にくわえたままで。

 カイルが通りすぎた後の風に前髪をあおられ。
 ミリアムたちのほうを振り向いたとき、ジョルダンは。
 くわえていた菓子パンを、口が開いた拍子に。
 床へと落下させてしまう。

「カ、カイル、あれ、あの顔……」
 言いかけたジョルダンに、
 戸外へ出ていたカイルは、再度。

「ジョルダン!」
 叱責に近い迫力で呼びかける。

「わかったって。待てよ、
 今マントと帽子取ってくるから……あ、悪い、ティエリー」
 気をきかせた導士が戸のかげで、
 ジョルダンの荷物一式をまとめて、
 手渡してくれたものと見える。

「じゃ、またな!」
 もはや誰をも振り向かず、帽子をかぶりマントをはおって、
 片手だけをひらひらさせながら、
 ジョルダンは出口へと走る。

「うん、またね!」
 振り向きもしないジョルダンに、ミリアムは声をかけ、
 手を振る。
 そんなミリアムに、もうひとりの黒髪のミリアムは。

 今のは今のは皇帝陛下だよね、
 ね、ね、そうだよね、うわあホンモノ?
 うそみたいこんな間近で見ちゃった!

 たたらを踏み、手放しで、興奮。
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≪040≫
 帰り道。馬上の二人。
 並足で歩を進ませる皇帝と、その側近。

 むっつりと黙り込むカイル。
 そんなカイルを、もてあますジョルダン。

 軽口で打破できる雰囲気ではない。
 ひやかすのは、却って逆効果。

 深紅のマントに包まれた広い背中を、
 所在なげに見守る。

 カイルの弱点。
 唯一と言っていい、弱点。

 家族。

 先代の皇帝は、五体が痺れ、
 石のように固くなる奇病にかかり、退位。

 烈女と謳われた先帝の后は夫の介護につきっきり。
 夫婦ともども宮殿の奥深くへ引きこもり、
 表舞台からは姿を消した。

 皇太后の姪にあたる皇后、カイルの奥方は。
 面差しが皇太后に、生き写し。

 皇太后はカイルと同じ赤毛だが。
 皇后は黒髪。

 皇后とカイルの間に生まれた王子も、また。
 同じ系統の顔立ち、そして黒髪。

 漆黒の巻き毛、勝気な眉、高い頬骨、顔の輪郭。
 先刻かいま見た、もうひとりのミリアムの特徴そのまま。

 家族。
 先帝、皇太后、皇后、皇子。

 万民を愛し、万民に愛されながら。
 カイルは家族に、愛されていない。

 先帝は、非凡な息子カイルに嫉妬。
 皇太后は万能の息子よりも、つねに夫を優先。

 皇后は愛しても報われぬ不満を抱え。
 皇子は母の無念を受け継ぎ、しかも。
 先帝の嫉妬をも、継承。

 ひとり秀でることの、孤独。
 血の近い者たちの間でさえ。
 いや、近しい者たちだからこそ。
 カイルの放つ強烈な輝きは、耐え難いのか。

 太陽の傍にいつまでもいられる星はない。
 燃え尽きてしまうから。

 おれはカイルの家族でなくてよかった。
 ジョルダンは内心、胸をなでおろす。
 だってあいつら、怪物の集まりみたいだもの。

 おそろしいのは。
 そんな状態でありながら、表面上は誰ひとり、
 波風立てず、優雅に礼節を保っている現実。

 内情に勘付いている者が、果たして何人いることか。
 ジョルダン以外に、いるのだろうか。

 家族に接するときの、カイルも不気味だ。
 カイルがいちばん、不気味だ。
 カイルが誰よりも、感情をみごとに律しているから。

 この男の覚悟や自制心というものに、
 限界は、ないのだろうか?

 ……でも、今日はさすがに、油断したな。

 最愛のミリアムの隣りに突然、
 皇家の女たちとそっくりな顔が並べば。
 そりゃあ寿命も縮むだろう。

 あの金髪のほうのミリアムは、
 ひとを油断させる天才だしな。

 そう。
 ミリアムは、危険だ。

 孤高の一角獣をも、陥落させる処女。
 あいつは、ナマの感情を刺激する。

 あいつに慣れてしまったら。
 カイルは、家族相手の化かし合いを、
 これまでのように平気で続けていけるのか。

 ミリアムとの最初の出会いを思い出す。
 神殿の中庭。眠り込むカイルとミリアム。
 心中して果てたかのような、ふたり。

 不吉な予感。
 背筋に戦慄。

 カイルは、滅ぼされるかもしれない。
 もしかしたら。
 カイルは、あいつに。

 滅ぼされたがっているのかも、しれない。
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