| ≪021≫ |
| 「ミリアムなんて、ありふれた名だよ」 カイルの眉間のしわに、 ジョルダンは気づかないのか。 「どこにでもいる、ミリアムなんて名の女は」 不快のしるし。 見逃すはずがあろうか、それとも。 「この宮殿の中にだって、何人もいる」 わざと無視しているのか、それとも。 「あんたは一体何人のミリアムを抱えて」 とめられないのだろうか、気づいていても。 わかっていても。 「何人のミリアムに仕えられてるか、 把握もできないだろ」 わかっているからこそ。 「あのミリアムだけが特別だなんて、ありえないよッ!」 「ジョルダン!」 カイルは声を荒げ、机を叩く。 それまでも小声で呼びかけては、いた。 ジョルダン、ジョルダン、よせ、よさないか。 ジョルダンの耳には届かなかったか。 届いても無視していたか、それとも。 届いていても、やめられなかったのか。 カイルの怒号で、ようやく沈黙がおりた。 「……いいかげんに、しなさい」 「なにをだよ」 片方のまぶたを押さえ、静かにつぶやくカイルに。 まだ絡み足りないジョルダン。 隠れていないほうの目で、 カイルはジョルダンを睨みつける。 カイルの、空色の瞳。 怒ると少し色が薄くなる。 心中ひそかにジョルダンは、恍惚となる。 氷みたい。冷たい怒り。 ぞくっとする。怖いけど、きれい。 滅多に見られないし、それに。 怒ってるっていうんなら、おれだって。 「いいかげんに、しろだって?」 猛烈に、怒ってる。 「あんたこそ、いいかげんにしてほしいね、カイル」 |
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| ≪022≫ |
| いつまで死んだ女のことを想ってるんだよ。 ジョルダンを冷たく睨み威圧していたカイルの瞳が。 驚愕に見開かれる。 片目をおおっていた手が、机に置かれる。 まばたきも忘れ、ジョルダンを凝視。 「おれが、知らないとでも思ってた?」 勝ち誇ったようにカイルを、そして、 みずからをも嘲るように、 皮肉な笑みを浮かべながら、ジョルダンは続ける。 おれに、そっくりなんだって? その、死んだ女って。 あんたのお父上の愛人だったんだってねえ? でもお父上より、 むしろあんたと仲よかったらしいじゃないさ。 その女だけに限らず、お父上の愛人とは、 歴代仲よかったんだよね、あんたって。 お父上が、嫉妬するくらい。 容易に想像つくよ。 あんたの想ってる女は、身ごもって。 その直後に、死んだんだよね。 死んだってか、暗殺? その後あんたはお妃を娶って。 お妃ご懐妊の最中に、おれが。 太守からの贈り物として、やって来た。 あんたがおれを寵愛するのは、 おれがその女に似てるからだって。 ずいぶん昔から、聞かされて知ってたよ。 あんた周りの人間を、その引力でどれだけ縛りつけ、 ふりまわしてるか、本当のところ、わかってないんだろ。 あんたに焦がれ、トチ狂った連中の、 恨みや妬み、悪意のつぶてを、 おれがどんなふうに受けてきたか、打たれてきたか、 かわしてきたか、耐えてきたか、わかってないんだろ。 今さら驚いてるあんたをみれば、 どれくらいわかってなかったかが、よくわかるよ。 支配者って、そういうもんだよね。 あんただけに限った話じゃない。 おれはあんたより百倍も苛烈な太守のもとで、 生き延びてきたんだもんよ。 ホントに、無慈悲なくらい鈍感にできてるよね、 あんたたちってさ。 まあ、それはいいよ。 死んだ女をおれに重ねて、おれを可愛がるのも、 いいさ。 まだ、我慢ができる。 おれが許せないのはね。 あんたがおれから、他のヤツに心を移すことさ。 |
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| ≪023≫ |
| あんまりじゃんかよ。 今さら、そりゃあないぜ。 あんなガキに。 あいつはオンナってだけで。 このおれが。 負けるわけ? ジョルダンの口調が、表情が、悲哀を帯びる。 カイルは、目を伏せた。 ジョルダンを、見ていられない。 「ねえ、おれはどうなるの?」 机に両手をつき椅子に座ったカイルを、 仁王立ちで見下ろしながら。 見下ろしながら、すがりつくまなざし。 途方にくれた、迷子のよう。 『追いおとされるの? 捨てられちゃうの? この宮殿には、いられるの? いられたとして、いられたとしても。 皇帝の寵愛を失った側近として。 宮廷中の笑い者として、道化として。 生きていかなきゃ、ならないの?』 そこまで訊けない。 おそろしくて。 「ジョルダン」 カイルの呼びかけに、心臓が凍りつく。 次の言葉は、死刑宣告。 「……すまない」 「謝んな、ばかッ!」 先刻、使者が置いていった書類の束をひっつかみ。 カイルに向けて、投げつける。 四十枚は、あったろうか。 カイルはあえて、それをよけなかった。 紙切れが、部屋中を舞う。 床に落ちきる前に、ジョルダンは部屋を飛び出す。 激しい扉の開閉の音で、それと知れる。 扉を守っていた衛士が、 飛び出していくジョルダンの剣幕に、度肝を抜かれる。 どうしたことかと、執務室をのぞくと。 皇帝が。 床に散らばった書類を、一枚ずつ拾い上げていた。 「へ、陛下、そのようなことは、わたくしが」 「いいよ、きみは持ち場に戻って」 慌てて駆け寄ろうとする衛士を、カイルは、 こともなげに制する。 床に落とした視線を、あげようともせずに。 「し、しかし……」 なおも戸惑う衛士に、向き直って。 「いいから。きみは自分の持ち場に戻っていなさい」 床にひざをついたままのカイルに。 衛士は圧倒されてしまう。 一礼をして、引き下がらざるをえなかった。 |
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| ≪024≫ |
| 夜が更けてから、ティエリー導士の管理する神殿に。 神殿と称するのもはばかられる、粗末な建物に。 カイルは足を踏み入れる。 そこに導士の姿はなく、巫女だけが、いた。 礼拝をすませたところ。 祭壇とその周りに点々と灯る蝋燭の炎を、 順番に吹き消していた。 「あ、いらっしゃい」 入り口にたたずむカイルを認め、ひとなつこい笑み。 蝋燭を吹き消す作業を一旦中止し、 蜀台の蝋燭に炎を移し、 それを捧げ持って踏み台から降り、カイルへと近づく。 踏み台にあがらないと、背が届かないのだ。 「こんばんわ。どうぞ、入って入って」 カイルの手を取り、椅子まで導く。 巫女の頭は、カイルの胸にも届かない。 「こんな夜中に、突然たずねて、すまない」 遠慮がちなカイルに。 「いいのよ、座って。のみもの持ってきましょうか? おいしいぶどう酒があるのよ。飲んでみたくない? ねえ、飲んでみたくない?」 巫女は瞳が、きらきら。 ふるまいたくて仕方ない様子。 「あ……じゃあ、もらおうかな」 とても拒める雰囲気ではない。 「はい。かしこまりました」 精一杯おすましをして、優雅にひざを折ってから。 「ちょっと待ってて」 ぱたぱたと祭壇の奥へ、消えていく。 カチャカチャと杯や盆を整える気配。 時々、ガタッ、ガタガタッと不穏な音が。 心配になったカイルが、祭壇の奥の小部屋を、 おそるおそる、覗き込む。 「巫女どの、大丈夫かい?」 「しーッ!」 巫女は自分のくちびるに指をあて、 カイルの言動を制止。 自分の立てる物音のほうが、よっぽど大きいのに。 いいから、あっち行ってて! そんな意志がはっきり伝わる仕草で、 カイルを追い払おうとする。 シッシッと、皇帝をまるで野良猫のごとき扱い。 カイルは自分の口をふさぎ、数度細かく頷きながら。 もう一方の手のひらを巫女に向けて、なだめ。 その場をすごすごと、退散。 カイルは、自問。 何故おれは、こそ泥みたいに猫背で、忍び足なんだ? 椅子に腰掛け、少々ぐったり。 どうも調子が狂うなあ。 この調子の乱されようは。 いつかどこかで。 ごく親しい間柄でも。 発生していたような気が。 だれを連想したかは、すぐに思い当たる。 相手は、ジョルダン。 カイルは、頭を抱えた。 |
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| ≪025≫ |
| ほどなく巫女が姿を現した。 手に杯が乗った盆をさげて。 慎重な足運び。 顔つきは真剣なあまり、無表情。 からくり人形の如き危うさ、ぎこちなさ。 「やあ、これはどうもありがとう」 カイルは大急ぎで立ちあがり、大股で巫女に近づき、 盆から杯を取り上げる。 溺れる者を救出する勢いで、手早く。 巫女は目と口をいっぱいに開けて、カイルを見上げる。 「あたし、そっちまで、ちゃんと運べたよ」 あからさまに、不満げ。 とてもそうは見えなかったよ。 おれのもとへたどり着くまでに、絶対こぼすか、 おっことすか、してたよ。 それはもう、まちがいなく。 ヘタしたら、おれの頭に、ぶちまけてたろう。 そんな予感がした。すごくしたんだ。 咄嗟にこう言い返したくなるのを、こらえて。 「うん、それはそうだろうけど、おれのほうが、 待ちきれなくてね。 先刻まで、そうでもなかったんだけど、 急にのどが渇いたんだ。 持ってきてくれたこれが、おいしそうだったからかな」 巫女は、まだ疑わしげ。 「……行儀わるかったかな。ごめんよ?」 カイルが、こう言い足すと。 「別に、いいけど」 口をとがらせて、そっぽを向く。 この言い草。 いつかどこかで。 ごく最近も。 身にしみて、カイルには覚えが。 相手は、ジョルダン。 カイルは軽いめまいに襲われ。 それを振り払うかのように。 杯の中のぶどう酒を、一口のどに注ぎ込む。 |
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| ≪026≫ |
| カイルが杯から口を離すと、すぐ。 巫女と目が合った。 巫女は盆で口元を隠し、カイルを見上げている。 強調された、大きなすみれ色の瞳が、 カイルを、凝視。 カイルは口にふくんだぶどう酒を、ごくりと飲み下す。 巫女の聞きたがっている言葉を発するため。 「うん、うまい!」 カイルの目は、笑っていない。 本当は味など、ろくに、わからない。 巫女の機嫌を取るのに、必死で。 どうか通じてくれ。祈りにも近い切迫感。 どうやら通じたようだ。 巫女は盆をおろす。満面の笑み。 カイルは胸をなでおろす。 ようやく及第点をもらえた、できの悪い生徒の気分。 満面の笑みをたたえた巫女の、次の言葉を聞くまでは。 「もう一杯、いかが?」 「いや、けっこう」 反射的に断ってしまった。 巫女は傷ついた表情になる。 「ま、まだ残ってるから」 杯をあげて見せながら、こう付け加え。 くるりと背を向け、椅子まで戻る。 いつまでも立ち話をしているから、いけないんだ。 ますます調子を狂わされるんだ。 カイルはそう結論づけたのだった。 |
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| ≪027≫ |
| カイルが椅子に腰かけるのを見届けてから。 巫女も、その隣りに座る。 「それで?」 「うん?」 巫女の問いかけに、カイルは生返事。 相当、くたびれている。 「なにかご用があって、いらしたんではないの?」 「あ」 なんだよ「あ」って。 そう思っているのが、手に取るようにわかる、 巫女の表情。 「なんだかもう、どうでもよくなってきたよ」 カイルの本音。 「……そういうひと、多い」 「え?」 巫女の返答に、虚をつかれる。 巫女は視線を落とし、足をぶらぶらさせて続ける。 「なにか相談があってきたのに、ちがいないのに。 もういい、どうでもよくなったって言って。 笑いながら、帰るの」 「ぷっ」 「なにが、おかしいのよ」 「あ、ごめん」 謝って、一時、神妙にしてみたものの。 結局、カイルはまた、吹き出してしまった。 「ご、ごめん、本当にごめん。 決して悪気じゃ、悪気じゃないんだよ、くっ、くくく」 こらえきれず、大爆笑。 「いいよ、もう」 巫女の許しを得るまでもなく。 「すきなだけ、笑いなさいよ」 カイルは気がすむまで、笑い転げた。 カイルの高潮とは裏腹に、とことん白けた巫女の様子が。 なんともとぼけた感じで、それが一層おかしくてならない。 肩で呼吸し、疲労困憊。 「おちつきましたか?」 「うーん、落ち着いたというか、毒気を抜かれたというか」 巫女の問いかけには、とっさに本音を答えてしまう。 ごく自然に、口をついて出てしまうのだ。 とりつくろうことが、できない。 油断してついうっかりとカイルは洩らしてしまう。 「やはり、どう考えてもまずいだろうな、こういうの」 「どういうの?」 「きみに、恋をしてしまうことさ」 |
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| ≪028≫ |
| 巫女は、もともと大きな瞳を倍ほども見開く。 見開き、瞬き、見開き、瞬きを、せわしなく繰り返し。 「すごい直球を投げてよこすよね、カイルって」 カイルは我に返り、そして。 血の気が引いた。 真っ青になった。文字どおり。 「いまの話は忘れてくれ」 慌てて立ち上がり、逃げ出そうとするから。 カイルは足を、しこたま椅子にぶつけてしまったが。 ぶつかって歪んだ椅子を直すこともせず、 床に落ちて転がる杯も、拾おうとせず。 足早に、出口の扉へ向かう。 「まちなさいよ、ひきょうもの!」 巫女の怒号が、カイルの動きを封じる。 鈴をふるような澄んだ高音で、おまけに、 舌足らずなものだから。 それほどの迫力もなかったのだが。 カイルは、動けなくなった。 巫女も、立ちあがっていた。 腰に手をあてている。 「こっちを、向きなさい!」 巫女の命令に、カイルは逆らえない。 「ここへ来て、もういちど座って」 カイルがぶつかって歪ませた椅子の位置を直し、 背もたれを軽く叩く。 カイルは、逆らえない。 年端も行かぬ少女を相手に、逆らえぬ。 従うほか、ない。 「いまの話は、忘れてくれ?」 うなだれるカイルに、横柄な口調の巫女。 「忘れられるわけ、ないでしょ。 乙女に、こんな告白をしておいて。 忘れてくれ、って言い捨てて、逃げるの?」 「うううう」 ぐうの音も、出ない。 「そんなことが、ゆるされると思っているの?」 「ううう」 「それが、一人前の男の、やることなの?」 「うう」 「こうなったら、きちんと責任をとってもらうわ」 「え?」 カイルは顔を上げて、巫女を見た。 ふざけているのか、真面目なのか、 判断のつきかねる表情で、仁王立ちしている、巫女を。 「せ、責任って、どんな」 |
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| ≪029≫ |
| 巫女は、高らかに宣言。 「これからも時々、顔を見せに、ここへ来て」 カイルは呆気に取られ。 そんなカイルを、巫女は置き去りにして続ける。 「皇帝陛下はお忙しいでしょうから、毎日とは言わないわ。 あたしに会うには、ふつう予約がいるんだけど、 カイルはあたしの想い人だから、予約はなくてもいいわ。 でも私も、こう見えて、そんなにひまな身じゃないから、 もし会えなくっても、 そのときは我慢してもらわなきゃいけないわ。 そこのところは、お互いさまね」 「ち、ちょっと待ってくれ。ちょっと、いいかな。 聞きたいことが、あるんだが」 「いいわよ。なあに?」 「おれは、ここに来て、一体なにをすれば良いんだい?」 「お話よ」 「話?」 「そうよ」 「それだけ?」 「あら」 巫女の次の言葉を聞いて、カイルは椅子から転げ落ちた。 「話だけじゃご不満なの、皇帝陛下? じゃああなたはあたしと、話以外の、 一体なにがしたいの?」 床に尻もちをついたカイルのそばに、しゃがみこんで、 さらに。 「あたしと話以上のなにかを、したいの? 今すぐ、ここで?」 「めめめ、滅相もない」 カイルは、あとずさり。 「じゃ、そういうことで、これからもよろしくね、カイル」 にっこり笑って、巫女はカイルに右手をさしのべる。 カイルは尻もちをついたままの格好で、その手を取り。 手の甲を上に向けさせ、そこに接吻。 「よろしく、巫女どの」 「あら、その呼びかたは、だめよ」 カイルの接吻に、動じもしない。 カイルに口づけられて、 ときめかない女性など、いなかった。 これまで、一人とて。 なにからなにまで調子が狂う。 勝手がちがう。 こ、子供だから、なのかな、まだ。 「呼び方にもダメ出しくらうのか、おれ」 少なからずがっかりして、カイルはつぶやく。 片手でひたいをおさえて、うなだれる。 「だって恋人どうしなのよ、あたしたち」 え、いつから。今から? 今もうすでに、そうなのか? カイルは、戸惑うばかり。 「恋人どうしは、名前で呼び合わなくっちゃね」 ハッとする、カイル。 「あたしのことは、ミリアムって呼んで」 ハッとして固まったカイルの肩に、頭をあずけ。 「ミリアムって呼んでよ、カイル」 あなたにそう呼ばれるために、あたしは。 うまれて、きたんだから。 |
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| ≪030≫ |
| 「あ」 神殿の扉を開けて、カイルとミリアムが、 外に出て来たとき。 白い愛馬を従えたジョルダンを、 先に見つけたのは、ミリアム。 「ジョルダン……」 呼びかけたのは、カイル。 「こんばんは、陛下」 ジョルダンの背後から声をかけてきたのは、 ティエリー導士。 カイルの黒馬を、引き連れて。 気性の激しいカイルの愛馬をなだめるのに、一苦労。 見かねたジョルダンが、もう片方から手綱をおさえる。 見知らぬ導士よりはジョルダンのほうが、ましと見え。 黒馬は、いくらか落ち着きを取り戻す。 「陛下の馬をお預かりしておりましたよ。 そして、麗しき側近も」 導士はジョルダンに目配せ。 それに釣られてカイルとミリアムも、ジョルダンへ、 目を向ける。 他人の視線など、普段は気にも止めないジョルダンだが。 相手は主人と、唯一の友人と、恋敵。 一斉に見つめられると、さすがにバツが悪い。 「……もう用は、済んだんだろ」 黒馬の歩を進ませ、カイルに手綱を押しつける。 だれとも、視線を交わさない。 ふてくされた口元。 不思議そうに見つめるカイルにだけ、ちらっと目をあげ。 「なんだよ。おれはあんたの側近だぜ。 勝手に夜の城下を、 一人歩きなんかされたら困るんだよ、皇帝陛下」 言うだけ言って、さっさと立ち去る。 表門まで行ってから馬に飛び乗り、一同を振り返る。 はやく来なよ、カイル。 催促する、まなざし。 「一体ジョルダンと、どんな話をしたんだね、導士?」 導士にそっと耳打ちして、訊ねるカイル。 信じられない豹変ぶりに、戸惑う。 たしかにジョルダンは気まぐれで、 ころころと気分が変わりやすい性質だが。 あんなに怒っていたのに。 迎えに来てくれるなんて。 上機嫌とは言えないまでも。 感情を律する態度で。 なにかこの導士が、 説教でもしてくれたのにちがいないと。 そう推測して、カイルは訊ねたのだが。 「べつに、どうということはない、 友人同士の雑談ですよ、陛下」 導士はカイルの質問を、さらりと交わして、ほほえんだ。 |
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| ≪031≫ |
| 人をはじいたら、はじかれますよ。 それは自然の、法則ですし。 巫女を相手にするなら、なおのこと。 彼女は自然の、申し子ですから。 彼女を、はじこうとしたら。 あなたのほうこそ、はじかれてしまいますよ、ジョルダン。 陛下のそばに、居たいのならば。 彼女を排除するのは、あきらめることです。 あの夜、導士はジョルダンに、こんな話をした。 導士いわく、どうということはない友人同士の、雑談。 「じゃあどうしろって言うんだよ!」 ジョルダンは、くってかかる。 はじくとは反対の対応をするのです、つまり。 受け入れること。 「ゼッタイやだ!」 ……では、せめて、認めるところから始めてみては? 「なんだよ、みとめるって」 よくご覧なさい、彼女を。 観察するんですよ。 すれば、わかります。 彼女が、どんな存在か。 「…………」 不満げに爪を噛み、思案顔でうつむくジョルダンに。 導士は、問いかける。 「まだ、ほんの幼い少女ですよ、相手は。 なにをそんなに怯えているのですか?」 「べ、べつにだれも、怯えてなんかないだろ!」 「そうですか?」 試すような、見透かすような導士の口調に、 カッとなって顔をあげたジョルダン、 その目に飛び込んできたのは。 柔和な微笑。 「それはよかった。 では、できますね。 彼女を見つめることくらいは、わけもなく」 嵌められた、と感じたときは既に遅く。 「お、おう、そのくらい、昼メシ前さ」 こう強がった後だった。 それから数日後。 ジョルダンは沈痛な面持ちで、神殿を訪れ。 ミリアムの前に、立っている。 ミリアムの前に立ち、ミリアムを見下ろしている。 ミリアムは肩幅に両足を開いて立ち、 腕組みをして、あごを上げ、ジョルダンに向け、言い放つ。 「あたしをまるで珍獣みたいな目で見るのは、 やめてくれないかしら、ジョルダン?」 珍獣じゃねえかよ。 とっさにこう言い返したくなるのを、かろうじて、こらえ。 「カイルは今日、来ないぜ。 手紙をあずかってきた、これだ」 邪険に、封書を突き出した。 |
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| ≪032≫ |
| 「うわあ、ありが……」 ありがとう、と言って手紙を受け取ろうと、 ミリアムは、手を差し伸べたのに。 ジョルダンは、手紙を持った手を、 天高く、上げてしまった。 あ。 自分でも、これはまずい、どうかしてるぞと思ったが。 あまりにも素直にミリアムが喜びを表現したので。 癪にさわった、その瞬間。 手紙を、ミリアムの手が届かないところまで、 掲げてしまったのだ。 「……ジョルダン」 ミリアムは手を差し出したまま。 「あんまり子供っぽい真似は、しないでくれる?」 子供に「子供っぽい」と言われて、さらにムッとする。 「渡しなさいよ、さっさと」 「やなこった」 子供っぽさが、というより大人げなさが、増すばかり。 「取れるもんなら取ってみろ……いてッ!」 ジョルダンは、ひざから崩れ落ちた。 ミリアムが、回し蹴りを食らわせたのだ。 ジョルダンの、ひざの後ろを狙って。 「こ、このガキ、なにしやがる」 「素直に渡さないほうが、いけないんでしょ。 まったく、お使いもまともにできないの? 困ったボクちゃんだわ」 痙攣するジョルダンの指先から、封書を抜き取り。 うずくまるジョルダンからは手の届かない窓辺へ。 優雅で気ままな蝶のようにひらひらと避難してから。 封を解く。 |
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| ≪033≫ |
| ミリアムは窓を背にし、油断なく。 封書とジョルダンを正面から無理なく捉えられるように、 視線を構える。 その心配は、なかったが。 ジョルダンは、すっかり戦意を喪失。 床に座りこんで、あぐらを掻き、頬杖をついて、 あさってのほうを向き、 すっかり、ふてくされている。 ほう、と洩れたミリアムのため息に誘われて、ようやく。 ジョルダンはミリアムのほうを、向く。 「カイルの字って、素敵よねえ」 うっとりと紙面を、ながめて。 「流れるようになめらかで、でもきっぱりしてるの。 気取りがなくて、読みやすくて、 でも乱暴でも失礼でもない。 全体に少し大きめなのは、ご愛嬌ね」 なに言ってんだ、字が素敵なんて、そんなの今さら。 だって、カイルだぜ。 綴る文字も言葉も韻律まで、完璧に決まってる。 書いてる姿、見たことないだろ。 ほれぼれするぜ。 姿勢を正し、呼吸を整えて。 書き文字はさらさらと、意外に早いんだ。 なにせ、多忙だから。 でも、勢いにまかせた字には、ならない。 とめ、はね、きちんと心にとめてる。 心を込めてるから、読む者の心にも残る。 一気に胸の内でジョルダンは、まくしたてたけれども。 口に出すのは、思い止まった。 自慢したい気持に、歯止めが。 自分の知っているカイルの姿を。 まだ知らないミリアムに教えてやるなんて、 もったいない気が、したし。それに。 苦い真実にも、思い至ってしまったから。 自分が持ってきた、封書。この中には。 カイルの、どんな思いの丈が、心が。 こもっていることか。 くやしい。 届けないで、破り捨ててやればよかった。でも。 そうできないのも、わかっていた。 カイルは、裏切れない。 裏切ったと知れたときの、カイルの反応なんて。 おそろしすぎて、想像もしたくない。 「すぐお返事を書くから、待ってて」 「やなこった、おれは帰る」 ジョルダンは立ちあがり、戸口へと向かった。 |
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| ≪034≫ |
| 「ええーッ、それはないでしょ、 ちょっと待ってよジョルダン!」 ミリアムは、あわててジョルダンに駆け寄り、引き止める。 「なによう、さっき蹴ったから怒ったの? でもでもだって、あれはジョルダンが、 先に意地悪したから、いけないんだよ!」 ばかやろう、そんなお気楽な理由か。 もっとフクザツなオトナの事情だ、こんちくしょうめ。 「あたしからのお返事を持って帰らないなんて、 片手落ちだよ。 カイル、がっかりするんじゃないかなあ。 ジョルダン、カイルに怒られちゃうかもしれないよ?」 「おれはそんなことでカイルに怒られたり、しないんだよ。 どけよ、そこ」 「どうしても、いま帰るの」 「そうともさ」 「じゃあ、あとから、あたしがお返事もって、 お城へ乗り込んでいくけど、それでもいいの?」 うッ、と一瞬、返答に窮するが。 直後にジョルダンは、冷笑を浮かべて切り返す。 「おまえなんか、門の中へ入れてもらえるもんか」 「あら、そう」 今度はミリアムが、冷笑を返す。 「なら、試しにやってみましょうか。 面白いよね。いっそ、なにか賭けてみる?」 一歩も引かないミリアム。 一瞬どころでなく、言葉につまるジョルダン。 なんだ、こいつは。 どこから湧いてきてるんだ、この絶大な自信は。 不気味な。 珍獣だ。 やっぱりこいつは、珍獣なんだ。 なにをしでかすか、わからない。 本当に、城門の中へ入って来ちまうかも。 いや、もっと怖いのは。 無理やり、押し通ろうとして、 最悪、殺されたりしたら。 カイルは、どんなに嘆くだろう。 おれはカイルに、なんて思われる? そこまで考えて、身震い。 「……そんなには、待たないぜ。早くしろよ」 「ありがとう! まあそう言わず、ゆっくりしてってよ。 いま、お茶をいれるから」 「茶なんか、いらねえよ」 「ぶどう酒のほうがいいの? だめよ、ゆうべも飲みすぎたでしょ」 「な、なんでそれを! おおお、おまえ、なんで知ってるんだよ!」 とっさに言い返してから、ハッとして口をおさえたが。 もう遅い。 ふん、と鼻をならして、ミリアムは答える。 「薔薇の香水ふりかけたくらいじゃ、 あたしの鼻は、ごまかされないわよ。 あたし、五感がするどいの。あ、第六感も、 もちろん発達してるんだけどね、えへへ」 さすがは珍獣だな。 「なにか言った?」 「なにも言ってねえよ。 ああ、もういいよ、茶でもなんでも、好きにいれろよ。 そんで早く返事を書け。早くしろよ」 珍獣につきあうのは、疲れる。 カイルは一体、こんなヤツのどこがいいんだか。 観察しても、向き合っても、 さっぱりわかんねえよティエリー。 ジョルダンは、ぶつくさ言いながら、椅子に腰かける。 ぐったりと背もたれに、背をあずけて。 |
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| ≪035≫ |
| ジョルダンは、椅子に腰かけ、茶をすする。 結局、自分でいれた、茶を。 たかが茶を一杯いれるだけとは到底、思えない物音を。 ミリアムが、台所で立てるので。 覗いてみたら。 たかが茶を一杯いれるだけとは到底、思えない惨状が。 ミリアムはジョルダンを追い払おうと手を振ったが。 「おまえ、飲めるシロモノちゃんと作れるのかよ!」 身の危険を感じたジョルダンには、通用しなかった。 「うわ、なんだこれ、ゲロまず」 ドス黒く濁って、泡と湯気を鍋の縁から、 ブクブクとこぼす液体に、小匙をつっこみ、 おそるおそる口をつけた後、 ジョルダンはこう言って、顔をしかめた。 「薬湯よ」 「薬湯だと? おれに薬湯のませようとしたのか、てめえ!」 薬湯。 それはジョルダンにとって、 思い出したくない過去へと直結。 「ふ、二日酔いの薬湯よ。 お茶の、一種だよ。 ジョルダン、あたま痛いんじゃないの。 あたし、具合わるいひとが近くにいると、わかるのよ。 自分も、具合わるくなるから、だから……ごめんなさい、 もっと飲みやすいのに、作りなおすから、 今すぐ作りなおすから、ごめんなさい、 そんなに怒らないでジョルダン、おねがい」 ミリアムの声が、震えている。 ハッと我に返る、ジョルダン。 ミリアムの手も、震えている。 ジョルダンは、それに気づいた、そして。 激しい後悔の念に、駆られた。 「……湯、足してみろよ」 もう怒ってないよ、怒鳴って悪かったよ、 そう言うかわりに。 ジョルダンは、助言を。 「それと、蜂蜜ないか。 甘味で誤魔化せば、なんとかなるだろ。 あ、待て、おれがやる。 湯を貸せ、蜂蜜はどこだ」 結局は、自分が仕切ってしまった。 濃度は薄まったが、分量は、倍に。 「連帯責任だ、おまえも飲め」 湯呑みをふたつ、ミリアムに持って来させ。 ひとつを自分の口に運び。 もうひとつをミリアムに向け、突き出す。 「あ、おいしい」 「だろ?」 ひとくち味見をして、微笑をかわす二人。 「あっちで、ゆっくり飲もうよ」 「そうだな、そうするか。 あ、待て、盆を持って来い、おれが運んでやるから」 まったく。 なんで、こうなるんだかなあ。 椅子に腰かけ、ジョルダンは茶をすすり。 うーん、うううーんと、唸りながら、 紙に向かうミリアムを、ながめ。 書き終わるのを、辛抱強く、待っている。 |
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| ≪036≫ |
| 「きみ、いつのまにジョルダンと親しくなったの?」 それから、さらに数日後。 ミリアムのもとを訪れたカイルは、開口一番。 ミリアムに、こう訊ねた。 「ええーっ、べつに、 そんなに親しくなんかなってないわよ。 どうしてそんなこと、聞くの?」 「だって先刻、ジョルダンはきみに、なにか、 耳打ちしていただろう。 彼はなにを、ささやいて行ったんだい?」 「ああ、あれはべつに、なんでもないのよ」 ジョルダンはミリアムの耳のそばまで、かがみこんで。 こう、ささやいて行ったのだ。 あの茶をカイルにふるまってやりなよ。 一発で目がさめるぜ。 ついでに百年の恋もな、さめるだろうよ。 「もうッ、うるさいわね、 いいからさっさとあっちへ行きなさいよ。 導士さまと話でもしてきたら?」 カイルの耳まで届いたのは、ミリアムの、この反論だけ。 ミリアムは、ほっぺたを赤くして、 ジョルダンをぶつ真似をしたし。 ジョルダンのほうも、ミリアムからそんな反応を引き出して、 まんざらではない風情で、 あっさり退散していったものだから。 カイルが不思議に思っても、無理はない。 内心、一瞬、かるく嫉妬心まで。 ミリアムの耳元にかがみこんだジョルダンは、まるで。 ミリアムに接吻したかのようにも、錯覚できたから。 まあ、なんにせよ、よかった。 カイルは同時に、安心も、した。 仲たがいするよりも、仲良くなってもらったほうが、 ありがたいには、違いなかった。 ミリアムとジョルダンの関係は。 もっと陰湿で、殺伐としたものになるのではと、 危惧していたから。 ミリアムはともかく、ジョルダンのほうが。 かなり、いきり立っていたので。 どうなることかと、はらはらしていた。 なにかあったとすれば、あの日しかない。 ミリアム宛ての手紙を持たせて、 ジョルダンに使いを頼んだ、あの日。 あの日に、一体なにがあったのか。 「どんな魔法を使ったんだい、巫女どの? ジョルダンの、きみへの態度があんなに軟化するなんて、 ちょっとすぐには信じられないよ」 「あら、魔法なんてなにも使ってないわ。 それに、あたしとジョルダンは、 本当にべつになにもそんなに親しくなんかなってないわ。 どうしてカイルがそんなことしつこく言うのか、 まったく、わからないわ」 ミリアムは、頑固に言い張る。 ジョルダンいわく「ゲロまず」な茶の一件など。 みずからすすんでカイルの耳に入れるつもりは。 毛頭、ない。 「それよりカイル、またまちがってる。 あたしのことは名前で呼んでって、まえにも言ったよ?」 「あ、ああ、うん」 咳払いをして、バツの悪さを緩和しようとするカイル。 一事が万事、この調子。 歴代随一の賢帝と謳われるカイルが。 こんな小娘に。 さっぱり頭が、あがらない。 |
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| ≪037≫ |
| 「だって、ご婦人を名前で呼んだことは、ないんだよ」 カイルは渋々、白状。 ミリアムが不思議そうに訊ねる。 「今まで、一度も?」 「そうさ」 「うそでしょ」 「うそじゃないよ」 「女ともだちって、カイルには、いないの?」 「友達……うーん、友達は……いない、かな?」 「……カイルの周りには、女のひとが、いないの?」 「いるよ」 「そのひとたちは、おともだちじゃないの?」 カイルは、考え込んでから。 「友達では、ないな」 こう結論を出した。 ミリアムはまた不思議そうに訊ねる。 「おともだちじゃないなら、じゃあ、そのひとたちは、 カイルの、なんなの?」 「そうだなあ……食事や着替えの用意とか、そういう、 身のまわりの世話をしてくれる人たちが大勢いるね。 でも、その人たちは、平たく言うと、雇っているからね。 働いてもらっているから、友達ではないんだな。 義務も責任も、お互いに負っているし。 友達という響きから感じる、対等さも気楽さも、ないね」 「ふうん……じゃあね、家族は?」 「家族?」 「そう」 「妃のことかい?」 「そう。名前で呼ばないの?」 「呼ばないよ」 「どうして?」 「どうしてって……どうしてかな。 そういう習慣がないから、かな?」 「奥さんなのに?」 「奥さんにも役職があるからね。 后妃という役目が。 その点は、おれの周りのどのご婦人とも変わらないな。 そうだな……そう言えばおれは、 たいていの人を肩書きで呼んでいる。 ご婦人だけじゃない。 おれが名前で呼ぶのは……なんてことだ」 カイルは一瞬、絶句。 「おれが名前で呼んでるのは、人間ではジョルダンだけだ。 愛馬は名前で呼んでるんだけど……しまった! 馬並みの扱いだなんて知れたら、 機嫌悪くなることは間違いないから、 今の話はジョルダンには内緒にしておいてくれないか」 カイルは本気で困惑している。 「言わないわよ、それより」 ミリアムは、呆れ顔。 「逆も、ありでしょ」 「え?」 「カイルのことを、カイルって名前で呼んでるのは、 ジョルダンとあたし以外に、だれかいる?」 「あ」 「カイルを名前で呼べるの、 この世でふたりしかいないわけね。 ふたりめで、光栄だわ、ふん」 ふん、て何だよ。 そう思ってカイルが改めてミリアムを見ると。 ミリアムはあきらかに、ふてくされていた。 |
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| ≪038≫ |
| 「ど、どうしたの」 カイルが、あわてて訊ねる。 「なにが」 ミリアムは、とぼける。 「ずいぶん、鼻息が荒いけど」 「そう?」 「鼻の穴、ふくらんでるよ」 「あたしの鼻の穴は、もともとこんなものよ」 「そうだったかなあ」 「そうよ」 「目がすわって、下くちびる突き出てるけど」 「…………」 「もともと、こんなものだったっけ?」 少しおどけて、カイルはミリアムの顔を覗き込んだが。 すわったままの瞳に、正面から睨み返され。 ミリアムへと傾けた身を、軽い咳払いとともに引く。 引きながらカイルは、 これまでの話の流れを胸の内で反芻。 結論を、はじき出す。 「もしかして、ジョルダンにやきもちを妬いてるの?」 ミリアムは、答えない。 「おれの奥さんには、妬かないの?」 やぶへび。 気づいたときには、遅く。 猛烈な鼻息とともに肩が上下。 ミリアムの両頬は、ぱんぱんにふくれた。 途方にくれたカイルは、なにを思ってか。 おそらく、 ぱんぱんにふくれたミリアムのほっぺたに誘われてか。 ふくれた頬を両側から左右の人差し指で、突っついた。 「なにするのよ!」 「ああごめんごめんごめんつい」 本気で怒られるとは、予想外。 ミリアムは両腕をそれぞれ風車のようにふりまわし、 カイルの胴を、メッタ打ち。 少女の腕力だ、そう痛くはないが。 勢いにおされて、戸口へ後退。 後退しながらも、カイルの口元には、笑み。 しかしミリアムに見られては一大事。 怒りの炎に油を注ぐは、必至。 用心深く、顔面をそむける。 「もう、今日は帰ってちょうだい」 最後のとどめとばかり、 ミリアムはカイルを戸口へ押しやる。 「え、うそ、うそだろ」 「うそじゃないわよ、帰って。 これから、ひとと会う約束があるのよ」 「そんな、うそだろ」 「うそじゃないったら。しつこいわね」 カイルを突き放し、ニヤリと笑い。 「今度、また来て」 「本当に、来客の予定があるの?」 「だからそうだって言ってるでしょ、ほら」 カイルを押しのけ、戸を開けると。 「……ごめん、早すぎたかな」 「ううん、そんなことないよ。 このひとはもう帰るところだから、ね?」 最後の「ね?」はカイルにむけて。 他の言葉は、廊下にたたずんでいた来訪者に対して。 ね、ホントだったでしょ? カイルにあごを突き出してみせるミリアム。 カイルは。 来訪者を見て、凍りつく。 |
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| ≪039≫ |
| 来訪者は、漆黒の巻き毛。 紫の紐で、ひとつに束ね、左肩から胸へと垂らし。 勝気そうな眉、翳りを帯びたまなざし。 路地裏で生き延びる仔猫のようにおどおどと、 それでいて油断なく相手を、カイルを、値踏み。 その瞳は左右が異なる色。 右が翡翠、左が琥珀。 その面差しは、 皇太后に、そして皇后に、 生き写し。 「カイル、彼女もミリアムっていうのよ。 年もあたしと近いの。 こっちのミリアムのほうが半年くらい、 おねえさんだったかな。 読み書きをお勉強にきてるの。 ミリアム、このひとは……」 カイルの動揺に気づかないのか、ミリアムは。 無邪気に来訪者を紹介。 「え……カイル? カ、カイルって、あの……ッ!」 来訪者ミリアムの口が開く。 こうていへいか。 口はこう動くが、声が出ない。 「じゃあ、おれはこれで。 また来るよ、日を改めて。 そちらのお嬢さんも、ごきげんよう」 声はかけたものの、黒髪のミリアムには目をくれず。 カイルはふたりの少女を残し、風のようにその場を去る。 「ジョルダン!」 よく通る声で、側近を呼ばわる。 足は止めない。 「え、なに、もう帰んの?」 台所からジョルダンが顔を出す。 導士にふるまわれたのであろう、呑気にも。 菓子パンを口にくわえたままで。 カイルが通りすぎた後の風に前髪をあおられ。 ミリアムたちのほうを振り向いたとき、ジョルダンは。 くわえていた菓子パンを、口が開いた拍子に。 床へと落下させてしまう。 「カ、カイル、あれ、あの顔……」 言いかけたジョルダンに、 戸外へ出ていたカイルは、再度。 「ジョルダン!」 叱責に近い迫力で呼びかける。 「わかったって。待てよ、 今マントと帽子取ってくるから……あ、悪い、ティエリー」 気をきかせた導士が戸のかげで、 ジョルダンの荷物一式をまとめて、 手渡してくれたものと見える。 「じゃ、またな!」 もはや誰をも振り向かず、帽子をかぶりマントをはおって、 片手だけをひらひらさせながら、 ジョルダンは出口へと走る。 「うん、またね!」 振り向きもしないジョルダンに、ミリアムは声をかけ、 手を振る。 そんなミリアムに、もうひとりの黒髪のミリアムは。 今のは今のは皇帝陛下だよね、 ね、ね、そうだよね、うわあホンモノ? うそみたいこんな間近で見ちゃった! たたらを踏み、手放しで、興奮。 |
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| ≪040≫ |
| 帰り道。馬上の二人。 並足で歩を進ませる皇帝と、その側近。 むっつりと黙り込むカイル。 そんなカイルを、もてあますジョルダン。 軽口で打破できる雰囲気ではない。 ひやかすのは、却って逆効果。 深紅のマントに包まれた広い背中を、 所在なげに見守る。 カイルの弱点。 唯一と言っていい、弱点。 家族。 先代の皇帝は、五体が痺れ、 石のように固くなる奇病にかかり、退位。 烈女と謳われた先帝の后は夫の介護につきっきり。 夫婦ともども宮殿の奥深くへ引きこもり、 表舞台からは姿を消した。 皇太后の姪にあたる皇后、カイルの奥方は。 面差しが皇太后に、生き写し。 皇太后はカイルと同じ赤毛だが。 皇后は黒髪。 皇后とカイルの間に生まれた王子も、また。 同じ系統の顔立ち、そして黒髪。 漆黒の巻き毛、勝気な眉、高い頬骨、顔の輪郭。 先刻かいま見た、もうひとりのミリアムの特徴そのまま。 家族。 先帝、皇太后、皇后、皇子。 万民を愛し、万民に愛されながら。 カイルは家族に、愛されていない。 先帝は、非凡な息子カイルに嫉妬。 皇太后は万能の息子よりも、つねに夫を優先。 皇后は愛しても報われぬ不満を抱え。 皇子は母の無念を受け継ぎ、しかも。 先帝の嫉妬をも、継承。 ひとり秀でることの、孤独。 血の近い者たちの間でさえ。 いや、近しい者たちだからこそ。 カイルの放つ強烈な輝きは、耐え難いのか。 太陽の傍にいつまでもいられる星はない。 燃え尽きてしまうから。 おれはカイルの家族でなくてよかった。 ジョルダンは内心、胸をなでおろす。 だってあいつら、怪物の集まりみたいだもの。 おそろしいのは。 そんな状態でありながら、表面上は誰ひとり、 波風立てず、優雅に礼節を保っている現実。 内情に勘付いている者が、果たして何人いることか。 ジョルダン以外に、いるのだろうか。 家族に接するときの、カイルも不気味だ。 カイルがいちばん、不気味だ。 カイルが誰よりも、感情をみごとに律しているから。 この男の覚悟や自制心というものに、 限界は、ないのだろうか? ……でも、今日はさすがに、油断したな。 最愛のミリアムの隣りに突然、 皇家の女たちとそっくりな顔が並べば。 そりゃあ寿命も縮むだろう。 あの金髪のほうのミリアムは、 ひとを油断させる天才だしな。 そう。 ミリアムは、危険だ。 孤高の一角獣をも、陥落させる処女。 あいつは、ナマの感情を刺激する。 あいつに慣れてしまったら。 カイルは、家族相手の化かし合いを、 これまでのように平気で続けていけるのか。 ミリアムとの最初の出会いを思い出す。 神殿の中庭。眠り込むカイルとミリアム。 心中して果てたかのような、ふたり。 不吉な予感。 背筋に戦慄。 カイルは、滅ぼされるかもしれない。 もしかしたら。 カイルは、あいつに。 滅ぼされたがっているのかも、しれない。 |
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