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聖寵 第二部





≪001≫
「えーと、この地図からすると……」
 たしか、このあたりなんだけど、と声が続く。
 若々しい、はりのある、だけれども。

 男とも、女とも、つかぬ。

 男にしては高音で、発音が少々、舌足らず。
 と言って女と断言するには、凛々しさが勝る。

「やっぱり、これがそうなんじゃないのか?」
 今度の声は、はっきり男とわかる。
 低く、よく響く、しっかりとした発音。
 聞き取りやすく、従いやすい。
 言い換えれば。

 抗い難い。

「えっ、これが? この貧乏臭い塀の向こうが?
 まさか、ありえないでしょ」
 しかし抗し難いその声が発した言葉を、
 いともあっさり否定する。

 最初の声の主は。しかも。
 さらに無邪気に否定を重ねる。

「だって仮にも今、巷を賑わす、
 ありがたーい巫女のおわす神殿だよ?
 こんなボロ家なわけないじゃない。
 場末の芝居小屋のほうがまだ立派だぜ。

 大体こんな都のはずれにあるって噂自体、
 おれはどうも怪しいと最初から思ってたんだ。
 あんた担がれたんじゃないの、カイル?」

「さあ、どうだろうな。
 なにはともあれ、
 正面へ回ってみればわかることさ」
 ずけずけとした物言いを、
 さして気にするふうでもなく、鷹揚に返答し、
 崩れ落ちそうな塀の角から姿を現した、
 大柄な馬上の男。

 一陣の風が吹き抜けて、
 男の頭巾を背後へ取り去る。
 頭巾の下にあったのは。
 短く刈り込んだ赤い髪。先端が逆立って炎のよう。
 顎をおおう髭も、赤い。炎の中に顔があるよう。

 その顔の中に、空色の双眸が。
 一点の曇りもない青空を映したような。

 その瞳孔が俄かに輝きを増し、
 実年齢にそぐわぬ、いたずらっ子めいた表情で、
 背後を降り返る。

「どうやらおれは、担がれたんじゃないようだ」
「……うそだろ……」

 そうつぶやいて目をみはる、馬上の麗人。
 うそだろ、そうつぶやいた本人こそ。
 嘘のような美貌の持ち主。
 驚きが、端正な顔立ちを微妙に壊し、それが。
 人間らしさを、加味。

 赤を基調にした衣をまとい、
 黒馬に騎乗するカイル。
 青を基調にした衣をまとい、
 白馬に騎乗するジョルダン。

 炎と氷。

 世界に冠たるロム帝国の皇帝と。
 その側近。
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≪002≫
「聖寵は、あまねく世界に満ち満ちている。
 そして、あなたに見出されるのを待っている」

 看板には、こう書かれていた。
 文字は達筆。木板は粗末。

 丁寧に拭き磨かれてはいるものの、
 どう贔屓目に見ても。
 そこらに打ち捨てられていた、板切れ。

 しかも。
 流麗な文字を嘲笑うかのように、
 卑猥な落書きが、縦横無尽。

「やっぱデマだよ」
 無邪気な勝利感を漂わせる
 カイルの指の先にある、
 その看板を眺めやり、
 ジョルダンはきっぱりと言い切った。

「看板の文句は、たしかにうわさ通りだけどさ、
 聖寵がどうのこうのって。
 だけど見なよ、この落書き。
 ヒドイもんだ。
 カイルあんた意味わかる?
 育ちよすぎて、わかんないんじゃないの?」

「失礼だな、意味くらいわかるよ」
 先刻、担がれたんじゃないのかと訊かれたときは、
 軽く受け流したのに。
 今回は、いささかムッとしたらしい。
 こう言い返す、カイル。

「おとなを馬鹿にするんじゃない。
 なんなら説明してみせようか。
 ええと、これは……」

「いい、いい、言わなくて。
 それより早く中へ入ろう。
 おれはこんなガラの悪いとこに
 長居したくないんだ。
 あんただって相当ヤバイんだぜ。

 あんたのほうこそ、本来
 こんなとこにいちゃマズイ身分だってのにさ。
 まったく酔狂にもほどがあるよ。
 付き合わされるこっちの身にも
 なってみろってんだ。
 だいたい、いっつもカイルってば……」

 ぶつくさ言いながら馬を前進させるジョルダン。
 取り残された形の、カイル。

「……なんだよ」
 きみが先に仕掛けてきた議論だろ、ジョルダン。
 口元でもごもごとつぶやいてはみたものの。
 もちろんジョルダンは、聞いてはいない。
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≪003≫
 門を通り、
 カイルが建物の前まで馬を進めると、
 ジョルダンはとうに馬から降りて
 戸口の横で、腕組みをして待っていた。

 上体は壁に寄りかかり、片足は曲げて
 壁に靴の裏をつけている。
 そうやって、ひざを曲げると、
 すらりとした脚線が、より強調される。

 立ち方ひとつ取ってみても、
 おのれの魅力を知り尽くし、
 最大限に引き出して、
 利用しようと試みる、貪欲な意志。

 過多な装飾、虚栄。
 見る者によっては、軽率なあざとさと、
 厭味にも解釈されかねない。

 けれども、カイルは知っていた。
 ジョルダンのそれは、幼い頃に沁みついた、
 生存本能と、直結しているのだと。

 愛されなければ、可愛がられなければ、
 魅了しなくては、

 明日はない。

 まさに必死の、生き残り作戦。
 そんな必要は、なくなったのだと、
 自他がいくら言い聞かせたところで。

 十数年を経た今に至っても、
 習性は、なかなか抜けない。

 おそらく一生、抜けないだろう。

 カイルも馬から降りる。
 降りて戸口に近づく。

 カイルと目が合ったジョルダンは、
 皮肉と無邪気が入り混じった笑顔を見せ、
 組んでいた腕をほどいてドアに手のひらを向け、
 礼儀正しく、頭を下げた。

 家臣が、王者にするように。
 ただし、足は、そのままだ。

 カイルもそれを受け、
 右手を胸にあて、上体を少し、かがめた。
 悪のりに互いが、吹き出しそうになる。

 カイルはすぐに姿勢を正し、
 ジョルダンに片目をつぶってみせて、
 軽く咳払いをしてから、ドアをノックした。
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≪004≫
 開いた覗き窓から外をうかがう瞳に、
 カイルは微笑んでみせる。
 扉の向こうの相手も、微笑み返した様子。

 扉が開いた。
 笑みを崩さず、カイルが告げる。
「今日この時刻に、こちらの巫女と
 面会の約束をしていた者だが」

 扉を開けた男は脇にひかえ、
 訪問者を迎え入れる。
「ようこそ、お待ち申し上げておりました」
 片ひざを折って、頭を垂れる。

 灰色の長衣。導士の衣服。
 この神殿の、管理者。
 痩身に、ゆったりした灰色の長衣をまとうと、
 まるで服に着られている印象。

 カイルはうなずき、室内に歩み入って、
 導士の肩に軽く手を置く。
 もういいから立ちなさい、という合図。

 その後にジョルダンも続く。
 おもてを上げた導士と、ジョルダンの視線が交差。
 立ち上がりかけた導士は、半端な中腰で、
 固まった。

「導士」
 カイルが声をかける。

「礼はもういいから、立ってくれないかな」
 居心地悪そうに、首の後ろに手をやって。
 凝りをほぐす仕草。

「……あ、はい」
 導士はジョルダンから目をそらし、
 慌てて立ちあがる。

 ジョルダンは、まだ導士から視線をはずさず、
 ほくそ笑む。
 軽蔑と優越をふくんだ笑み。

 なんだ、導士さまなんて言ったって。
 おれに見惚れるあたり、
 しょせんはタダのオスじゃんか。

 おれはね、導士さま。
 あんたみたいなヤツが、大キライさ。

 ママのスカートのかげに隠れる、
 甘ったれ小僧みたいに。
 神さまなんて、都合のいい妄想のかげに隠れてさ。
 そのかげで、こそこそなにをやってんだか。

 おれが、引きずり出してやるよ。
 向き合うがいい、おのれの本性と。

 巣から落ちた雛鳥を見つけた猫さながら。
 背後で瞳をきらめかせるジョルダンを知らぬまま、
 カイルは導士に訊ねる。

「で、うわさの巫女は、どちらに?」
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≪005≫
 彼女なら今、中庭に。
 こちらです、どうぞ。そう言って。
 導士は裏口を開ける。

 ありがとう、と礼を述べて、カイルはその戸をくぐる。
 導士は会釈。

 カイルに続いて戸をくぐろうとするジョルダンを、
 導士は制す。

「あなたは、ここでお待ち願えますか」
「……なんでさ」
 不服そうなジョルダンに。
「彼女は、あのお方とふたりだけで会うことを、
 望んでおりますもので」

 生来、導士は少し猫背なのか、
 胸をそらして傲然と立つジョルダンと対峙すると、
 貧相な印象が、一層きわだつ。

 なのに、引かない。

 不意打ちをくらった先ほどのようには、
 たやすく動じはしない。

 ふん。
 ジョルダンは鼻をならし、
 まあいいけど、と案外あっさり引き下がった。

 ジョルダンは、もともと巫女などには興味がない。
 そんなものに興味を示すカイルにも、
 正直あきれている。

 まったく、あの旺盛な好奇心にも困ったものだ。
 ちょっとでも心ひかれたら、
 自分で確かめないことには、
 もうおさまりが、つかないんだから。

 いくつになっても、
 子供みたいなところが抜けないカイル。

「おれが、ついててやらないと」
 口には出さないものの、
 ジョルダンはカイルに対して、
 つねづねそう自負していたし、
 またカイルのほうでも、
 ジョルダンには自分がついていてやらねば、
 と言う思いが。

 しかし、まあ、今日に限っては。
 巫女などと言っても、たかが小娘ひとりが、
 あの大男を相手に、
 なんの害を及ぼせるわけもなし。
 それよりも。

 自分の楽しみを、優先させても、
 バチは当たらないよね。

 この導士、からかい甲斐が、ありそうだ。

 くちびるの端が、つりあがる。
 それを赤い舌が、なぞる。

「のどが乾いたよ。ぶどう酒かなんか、もらえない?
 あるなら、ぼくは、赤がいいんだけどな」

 邪気など片鱗も見せない、極上の笑顔で、
 ジョルダンは導士に、せがむ。
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≪006≫
 導士は素朴な木製の杯を、運んできた。
 中身はジョルダンご所望の、赤ぶどう酒。

 まずは、ひとくち味見、と軽い気持で
 杯に口をつけたジョルダンは、しかし。

 意外そうに、目を見はる。
「……は」
 杯の中身を、凝視。

「まあまあだね」
 なぜか負け惜しみの口調で、つぶやく。
 導士は、頭を下げる。

「けっこういいもの飲んでるんだ。
 もしかして意外と、暮らしむきは豊か?」

 説教を聞く者たちのために並べられた
 椅子のひとつに、
 ことわりもなく腰をおろし、
 高々と足を組んで、問うジョルダン。

「私は飲みません。それは来客用に
 取っておいたものです」
 淡々と答える導士。
「賜り物ですので」

 たまわりもの?
 ああ、つまり。

 寄付ってことか。

「ありがたーいご託宣の、見返りってわけ」
 なら遠慮なく、と言わんばかりに、
 ごくごくと、のどに流し込む。

「巫女さまさま、だね? そうでしょ?」
 ぷはー。
 わざとのように、行儀が悪い。
 優雅で上品な、天性の雰囲気を、
 ことさら、ぶち壊すかのような、ふるまい。

「けちけちしないで、ビンごと持ってきてよ。
 かまわないでしょ、どうせあんた、
 飲まないんだからさ」
 ジョルダンは導士にむけて、横柄に杯を突き出す。
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≪007≫
 中庭に足を踏み入れたカイルは、しかし。
 途方に暮れて、立ちすくむ。

 巫女は、いた。
 巫女とおぼしき、少女は。

 そう広くはない庭だ。
 いくら辺りを見回しても、他には誰もいない。
 男も女も年寄りも赤子も。
 人間の形をした生き物は、その少女しか、いない。

 少女は合歓の木の下に、横たわっていた。
 こちらに背を向け、胎児のように手足を縮めて。
 ゆったりと規則正しく上下する肩。
 木陰を渡るそよ風が時折、髪をゆらす。

 蜂蜜色の、絹糸を束ねたような髪。
 微風にも軽々と、舞う。
 少女は、熟睡しきっていた。

 カイルは、ため息をつき、うなだれ。
 また顔を上げて、周囲を見回す。
 なにか、自分を助けてくれる存在はいないかと。
 あるいは、こんなときどうすればいいか、
 相談に乗ってくれる、誰かはいないかと。

 いやしない。そんなものは。
 再度、がっくりとうなだれる。

 せっかく、ここまで来たのに。
 次にいつ来られるか、わからないのに。
 これでもけっこう多忙なんだよ、おれ。

 かと言って、
 これほどすやすやと心地よさげに眠る少女を。
 自分の都合で揺り起こすのも、気は引ける。

 時間だけが無為に過ぎる。

 ……もうあきらめて、帰ろうかな。
 そう決断しかけた矢先。
 かすかな、うめき声が聞こえた。

 少女が、身じろぎを始める気配。
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≪008≫
 カイルは期待に身を乗りだすが、
 相手は寝返りを打っただけ。
 一旦乗り出した身を、ふたたび引く。
 うっ、と呻いて。

 相手は寝返りを打った拍子に、
 それまで縮めていた四肢を、伸ばした。
 真白い素足が、ひざの上まで露わ。

 すんなり伸びた、華奢な脚線。
 それにカイルは、既視感をおぼえる。
 以前にも、どこかで見た。この足の形は。

 ジョルダンだ。カイルは思い出した。
 衝撃的な、邂逅。
 絨毯から、まろび出てきたジョルダン。

 力なく投げ出された四肢。
 あのときの彼と、同じような寝姿。
 年の頃も、当時の彼と重なる。
 十一から十二、と言ったところか。

 ただ、まとう衣服が。
 当時のジョルダンは半透明の薄絹。
 今、目の前に横たわる少女は、灰色のワンピース。
 本来、足首までの丈はあるにちがいないが、
 すそが、たくしあがって、
 足の大部分が、露出。

 やたらと胸がざわめくのは。
 当時のジョルダンを、思い出したからか。
 それとも。

 先刻までとは、また少し趣のちがう内容で、
 カイルは途方に暮れてしまう。

 どうしたらいいんだ、これ。
 このまま放置して帰ったら、
 だれかに見られてしまうよな、
 この、あられもない格好を。

 異性の目を意識するには、まだ幼さが勝るか。
 だれに見られたところで、本人は、
 さして、
 気にもとめないにちがいないだろうけれども。

 おれが、嫌なんだ。
 だれにも見られたくない。
 見せたくない。

 どうしてかな。
 わからないけど、嫌なんだ。
 我慢ならないくらい、いやだ。
 どうしてかな。

 木陰に横たわる少女に近づき、ひざまずく。
 そして右手のひとさし指と親指で、
 灰色の衣服の端を
 そっと、引っ張ってみる。

 あまり力まかせに引っ張ってしまうと、
 彼女が目を覚ましてしまう危険が。

 くそ、この。
 めくれあがった、この服のすそを、
 どうにか引っ張りおろして、この足を、
 隠しさえすれば。
 もうそれだけでじゅうぶん満足して、
 今日おれは帰ることができるのに。

 駄目だった。
 すそは、彼女の尻に
 しっかりと敷きこまれてしまっている。
 ……そんなに大きくもない尻なのに。
 案外、重いんだな。

 カイルは肩で呼吸をし始め、
 あげくに断念し、両手を地面に。
 それで上体を支える。

 なんてザマだ。
 たぐいまれなる賢帝と謳われる、
 ロム帝国の皇帝カイルが。
 少女の尻に敷きこまれた衣服のすそを、
 どうすることもできなくて。

 地面にひざをつき。
 四つん這い。

 くくっ。
 のどの奥から、自嘲が洩れ、
 両肩が、ゆれる。

 地面から両手をはなす。
 きっぱりとした、潔い動作。

 日よけにまとっていたマントを脱ぐ。
 その赤い髪によく映える、深紅のマント。
 脱いだマントを、そっと少女にかけてやる。

 どぎまぎさせる対象が、すっぽり覆われたので、
 その口からは、安堵のためいきが。

 これでよし。
 このマントは、このまま置いておこう。
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≪009≫
 立ちあがろうとしたカイルを止めたのは、
 少女のかたわらにあった、本。

 うわさの巫女、どんな難解な聖典を、
 紐解いているのかと思いきや。

 絵本。
 表紙に描かれているのは、ぶたの顔。

 ……ぶた、だ。
 カイルは絵本の表紙の顔と、見つめ合う。
 ヘタなのか、うまいのか。
 どちらとも言えるような、言えないような。

 塗りムラの目立つ桃色の肌をした、ぶた。
 まんまるい赤味が、両のほっぺたに。
 目を細め、口を全開の、笑顔。
 技術はともかく、愛嬌は溢れんばかり。

 手製の、絵本だろうか。
 らくがき帖なのかもしれない。
 そっとページを、めくってみる。

 どうやら、文字を教えるための教材として、
 作られたものであるらしい。

 ……この子が、描いたのかな。
 ぶたに問いかけるかのように、
 首をかしげてみたけれど。
 もちろん、ぶたの絵がそれに答えるわけもなく。

 たいした問題ではないと言えば、
 それまでなのだけれども。
 どうしても本人に問いただしてみたい衝動を、
 抑えきれぬ。
 あるいは。

 こんな些細なきっかけでも、
 どんなくだらない理由でも。
 飛びつかずにはいられない。
 話を、してみたいんだ。

 そうだ、声を聞いてみたい。
 どんな声なんだろう。
 そう言えば、顔もまともに拝んでいない。
 蜂蜜色の髪がベールのようにかぶさっていて。

 つまりはカイル当人が、
 彼女と離れ難かっただけのこと。

 無意味にかぶりを振って、ため息まじりの苦笑。
 あきらめた、と言うよりは。
 腹を決めた、と言わんばかり。

 木の根元に腰をおろし。
 幹に背をつけ、あたりを見渡す。

 木陰から眺める、ひなたの光景。
 うらうらとのどかで、きらきらとまぶしい。

 かたわらには、安らかな寝息をたてる少女。
 カイルのマントにくるまれて。
 なんの憂いも、なさそうに。

 木の葉がざわめく。
 雲雀がさえずる。

 こんなにゆったりした時の流れに身を浸すのは。
 果たして何年ぶりだろう。

 カイルが即位して以来、
 大きな動乱は帝国ロムでは起きていない。

 平和は、自然に保たれているのではなくて。
 カイルの意志が、情熱が、信念が、決断が、実行が。
 絶妙のバランス感覚が。
 結実し、反映されたもの。

 あまりにも鮮やかに統治しているがゆえに。
 自然のなりゆきのようにしか、見えないとしても。

 帝国の盛衰、運命の行方。
 それらを一身に背負う賢帝カイルは。
 大あくびをしてから、頭も幹に、預けてみた。
 少し、のけぞる。首の筋がのびて、心地よい。
 うっとりと目を閉じる。

 炎の色をした髪の先端を。
 そよ風が、あおる。
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≪010≫
「あんたさあ、なんかムカつくんだよね」
 杯に上等のぶどう酒を注いでもらいながら。
 ジョルダンは導士に、毒づく。

 剣呑な流し目。
 当の本人は悪意をむきだしにしたつもり、だが。
 椅子に腰かけたまま、立って給仕する相手を、
 無理やり見下そうとするものだから。

 不自然にあごを突き出す格好になり。
 悪態をつく、というよりは、まるで。
 おとなの気を引きたくて拗ねる子供のよう。

 導士は所在なさげに、ほほえんでみせる。

「ムカつく」と言われてほほえむ人間は少ない。
 と言うよりも。
「ムカつく」と毒づいて、なお、ほほえみ返される、
 ジョルダンの側こそが、特異。

 ジョルダンは こう信じて疑わない。
 トゲある言葉を吐くことが、攻撃であると。
 通常そうであろう、しかし。

 ことジョルダンに限って言えば、
 もっと有効な攻撃手段は、他にある。

 徹底した無視、無関心。

 ジョルダンに意地悪や悪戯をしかけられることを。
 相手は不快と思わない。むしろ。
 光栄とさえ、思う。

 ジョルダンの口から出た言葉の意味そのものに。
 相手はさほど興味をひかれない。
 罵倒でもなんでも、かまわないのだ、それよりも。

 ジョルダンの口から自分に対して言葉を発せられた。
 その事実のほうが、より重要。

 一瞥でもいい。一言でも。
 ジョルダンに関心を持たれた、それだけで。
 ひとは、有頂天。

 ジョルダン本人は、そのことにまったく思い至らない。
 それだから。
 今まで、自分の無視、無関心によって、
 どれだけ多くの人々を落胆させたか、自覚もない。

 そして今、どれほど導士をよろこばせているのかも。
 まるで、わかっていないのだ。

「一体なにが、おかしいのさ」
 導士をほほえませたのが、
 自分だという自覚を持たないジョルダンは。
 ますます、いきり立つばかり。
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≪011≫
 ジョルダンが気分を害した様子が、
 あからさまに見て取れたため。
 導士は、やや焦り気味に謝罪の言葉を口に。
 けれど。

 たとえ不快感を露わにしただけであれ何であれ。
 それは「ジョルダンからの反応」に他ならぬ。
 ゆえに導士の口調や身振りには、
 少々場違いな、浮かれたような色が。

 ジョルダンは、匂いを嗅ぎ分ける。
 大人が子供をなだめるような、
 その場かぎりの、おざなりな、ご機嫌とりの、匂い。

 許さない、おれを軽くあしらうなんて。
 あんたを手玉に取って遊ぶのは、
 おれのほうなんだよ。
 あんたに遊ばれるなんて、ゼッタイ、
 ありえないんだからね!

 むしゃくしゃした気分そのままに、
 ジョルダンは杯をあおり、カラの杯を導士に向けて。
「ふんっ」
 鼻息荒く、ふてくされた仕草。

 導士はまた、微笑を禁じえない。
「だから、なにがそんなにおかしいのかって、
 聞いてるだろ!」
 椅子から立ちあがって、
 金切り声をはりあげるジョルダン。
 導士は驚いて、半歩ほど後ずさる。

「注いでよ! さっさと!」
 剣幕に圧され、
 導士はジョルダンの持つ杯にぶどう酒を注ぐ。

 これみよがしにソッポを向いて、導士を置き去り。
 ジョルダンは窓辺に向かう。
 外の景色でも眺めて、気分を変えるつもり。

「……あなたに、似たひとを知っているのです」
 ぶどう酒のビンを抱えながら、道士がつぶやく。

「あなたを見ていると、そのひとを思い出して、つい」
 腕に抱えた、ぶどう酒のビンに視線を落とす。
 うっとりと、見惚れるように。

「あのようなひとは、二人といないと思っていましたが、
 もうひとり、いたのですね」
 まるで、腕の中のビンが、
「そのひと」そのものであるかのように、うっとりと。

「……だれさ、それ」
 さして興味もなさそうに、ジョルダンは訊ねる。
 内心、耳を、そばだてていても。
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≪012≫
「こちらの、巫女です」
「あ、そう」
 途端に、本心から興味を失う。
 ……が。

「たぐいまれなる恩寵を、
 その身に授かっていらっしゃる。
 たとえばその美貌、そして、その愛嬌。
 そこにいるだけで、ひとに微笑とぬくもりを与える。
 あなたたちは、愛情に満ち溢れているように見える」

 導士が続けたこの言葉が、ジョルダンの神経を。
 逆撫で。

 豹変。
 空気が、変わる。
 急激に、部屋の温度が下がったような錯覚すら。

「あんたのその目は、フシアナなのかよ」
 あんたの巫女は、どうだか知らないが。
 おれの周りに満ち溢れているのは「愛欲」ばかりさ。

 瞳に暗い炎が宿る。
 幼少から、植えつけられた、炎。

 カイルだけだ。
 おれを、そんなふうに見ないのは。
 本音をいうと、カイルにだけは。

 そんな目で見られてもいいんだけど。
 そんな目で、むしろ見てほしいんだけど。
 カイルは絶対、そうしない。

 カイルのそばに、いないとダメだ。
 おれは憎しみのどす黒い炎で、なにもかも。
 焼き尽くしてしまうんだ。
 なのに。

 なにを呑気なことを、ほざいていやがる、エセ導士!

「あんたさあ、去勢されてる?」
 唐突に、挑発的に、ジョルダンは導士に問いかける。

「されてないよね。じゃあさ、
 ケツに突っ込まれたことは?」
 さらに、畳みかける。
「ある? ないよねえ?
 じゃあどうせ、おれの気持なんか、わかりっこないよ」

 腹立ちまぎれに、あおったぶどう酒を、しかし。
 ジョルダンは、飲み干すことができなかった。
 導士が、こう答えたからだ。

「……去勢は、されていませんが。
 ケツに突っ込まれたことなら、ありますよ」

 ジョルダンはぶどう酒の大半を吹き出し。
 残りをのどにつまらせて。
 激しく咳き込んだ。
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≪013≫
 ふいに巫女は目覚めた、そして。
 自身がすっぽりと、
 深紅のマントにくるまれているのに気づく。
 二度ほど、ぱちぱちと瞬きをしてから、
 目玉だけを動かして、あたりをうかがう。

 上方に、足が見えた。
 地面に投げ出された、がっしりした男の両足。
 上質の皮革が渋い光沢を放つ、長靴。

 そろそろと頭を反らす。
 足首、ふくらはぎ、腿、腰、そして。
 草の上に、だらりと落ちた、手。

 間接には、タコ。
 節々はたくましいのに、指先は繊細で清潔。
 中指と薬指に金の指輪。
 中指のは太く、複雑な模様が刻み込まれており。
 薬指のは細身で、表面は、なめらか。

 てのひら全体にふっくらと肉が乗り。
 血色で、そのあたたかさが知れる。
 この手でなでてもらったら。
 きっと天にものぼる、よい心地。

 この位置からでは、相手の顔立ちは、わからない。
 存在感のある太くて長い首の延長上に。
 すっきりしたあごと頬の線がうかがえるだけ。

 あごにも頬にも、赤いひげ。
 逆光で、やや金色がかって見える。
 髪の色と同じ。炎のよう。

 巫女は、男から目を離さずに、ゆっくりと身を起こす。
 ひざをついてにじり寄り、男の顔を間近で覗きこむ。

 笑みがひろがる。
 満面の笑み。それが。
 いたずらを思いついた、小悪魔の表情に。
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≪014≫
 そろそろと四つん這いで幹の裏側にまわる。
 そこには、絵描き道具一式が。
 筆に、赤絵の具をちょいとつけて。
 眠る男のそばへ戻る。

 男の鼻に、筆をちょんと、のせてみる。
 相手は、みじろぎもしない。

 くふふ、と笑い声がもれ、あわてて口をおさえる。
 笑いを殺して身悶えながら、巫女はさらに、
 男の鼻を赤く塗り。
 ついでとばかり両頬に、ひげも描いてみた。
 三本ずつ、横に線を引いて。
 ねこの、ひげだ。

 完成した「作品」を巫女は悦に入って、
 しばらくほれぼれと眺めていたが。
 やがて、つまらなくなった。

 相手が、いつまでたっても起きないからだ。
 人差し指で、軽く肩を、つついてみる。
 反応なし。

 相変わらず鼻の穴をひろげ、
 大口をあけて眠り続けるばかり。
 いっそ鼻の穴か口の中に、
 指でもつっこんでみようかと思案したけれど。
 そこで、大あくび。

 巫女もふたたび、睡魔に襲われる。
 筆を放りだし、肩からずりおちた深紅のマントを、
 拾い上げる。
 しっかりとマントにくるまってから、
 改めて草の上に身を横たえる。
 今度は頭を、男のひざに乗せてみた。

 起きちゃうかな。
 ちょっとわくわくどきどきしながら、乗せてみたら。
 男は、なにごとかむにゃむにゃとつぶやきながら。
 巫女の頭に、手を乗せてきた。

 なにか小動物とでも勘違いしているのか。
 寝ぼけながら巫女の頭、首、肩を数度なでてくれる。

 予想どおり、予想以上に。
 天にものぼる、よい心地。

 巫女もまた、うっとりと。
 まどろみの世界に、おちていく。
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≪015≫
 飲みかけのぶどう酒が、
 どうやら違うところに入ってしまったらしい。
 むせ続け胸を叩くジョルダンに、
 導士はふところから白い布を出して、渡す。

 おぼれる者がすがりつくような切迫した形相で、
 ジョルダンはそれを、ひったくる。

「あ、あ、あんた、あんたってば、なにを、いきなり、
 言い出すかとおもえば……ひと担ぐのも、
 いいかげんにしろよ!」

「担いでなどおりませんよ。
 聞かれたことに答えただけですが……もし、
 大丈夫ですか?」
「ううう、うるさい、
 一体だれのせいだと……さわるなよ!」

 まだ発作がおさまりきらぬ内から、
 文句を並べ立てようとするジョルダンを気遣い、
 導士は背中をさすろうとするが、当のジョルダンは。
 邪険に、その手をはらいのける。

 顔の大半は導士が差し出してくれた白布で、
 おおわれていると言うのに。
 白布を赤ぶどう酒のシミで、
 汚しているのにもかかわらず、だ。

 ジョルダンは自分のことで手一杯。
 導士の顔色までうかがう余裕はない。
 だから導士は思う存分、
 笑みを浮かべることができた。

 鼻から下はまだ、白布でおおったまま、
 涙でうるんだジョルダンの瞳に、
 キッと睨みつけられるまでは。
 導士はあわてて、しかつめらしい表情をとりつくろう。

「……うそなんだろ、さっきの話」
 こほん、と今さらながら気取った咳払いをしてから。
 白布をきちんとたたみ直し、導士に返す。
 返しながら、猜疑心のかたまりのような目で、
 ジョルダンは訊ねた。

「嘘なものですか」
 白布をふところにしまいながら、導士は。
 平然と、くりかえす。

「去勢はされていませんが、
 ケツにつっこまれたことは、あります」
 最初に話をふったジョルダンのほうが、むしろ、
 きまり悪げ。
 うつむいて、耳たぶを赤くする。

「じゃあ誰にだよ。言ってみろよ」
 うつむいたまま、虚空をにらんで問いかける。
 まるで説教されて、ふくれる悪童のよう。

「まだ見習いの頃、先輩の導士に」
 若くて生意気で、気にくわなかったのでしょう。
 彼の悪い友達数人に押さえ込まれて、
 まわされました。

 だれもそこまで聞いてないだろ、もうやめろよ、
 悪かったよ。
 そう遮りそうになったけれど。
 実際ジョルダンから発せられた言葉は。

「……ふうん」
 さして関心なさそうな相槌と、次の質問。
「そいつ、今、どうしてるの」
 導士は答える。淡々と。

「故郷で立派につとめていますよ、導士として。
 時々、書簡をかわしています」
 ぶどう酒を飲んでいなくてよかった、
 とジョルダンは思った。
 飲んでいたら、きっとまた、
 あやうく吹き出してしまうところ。
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≪016≫
「なんだよそれ、ふざけんな!」
 過去の屈辱を冷静に語る導士のかわりに。
 今現在、
 自分がその痛みを負ってでもいるかのように。
 ジョルダンは激昂。

「いまでも手紙をやりとりしてるって?
 ばかじゃないの、あんた!
 いいか、忠告しとくぞ。
 いまじゃすっかり仲良しさんだなんて、ほざいてみろ。
 ただじゃおかないからな!」

 まるで自分が被害者で、導士がその暴行犯。
 それほどの、厳しい弾劾。
 指先を、短剣のようにふりかざし、
 導士にむけて突き出す。

 導士は片手をこめかみに当て、思案顔。
 ためいきまじりに、こう洩らす。

「……困りましたねえ」
 その仕草のまま、視線をジョルダンのほうに流し。
「彼と私は、今ではすっかり仲良しなんですよ」

 片頬に、うすら笑い。

 こいつ。
 ジョルダンは青ざめた。
 突き出した指先がこわばって、ぷるぷると震え出す。

 こいつったら。
 とんだ猫っかぶりだ。

 導士に指先をとらえられても。
 ジョルダンは動けずにいた。

 導士はジョルダンの指をとらえ、
 ゆっくりと下へ、降ろしてやる。

 そこでようやくジョルダンは我に返り。
 今度は顔面に、朱をのぼらせる。

 一見、氷の如き端麗なる美形が。
 間近でくるくると、
 表情ゆたかに青ざめたり、また赤面したり。

 導士は極上の歌劇を、
 特等席で鑑賞している陶酔感にも似た、夢心地。

 導士は夢心地でも、ジョルダンは。
 ジョルダンの心境は、まるで。

 罠に落ち捕縛された、小鳥。
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≪017≫
 ジョルダンは、ぎゅっと目を閉じてみた。
 そうやって視界から、すべてを消す。
 世界を。導士を。

 一旦、抹殺しておいてから。
 導士の手をふりきって、数歩駆け出す。

 呪縛を解くために。
 それは成功した。
 思わず呼吸も止めていた。
 ぐったり疲れた。

 ちくしょう。
 猫っかぶり導士のヤロー。

 胸の内で罵ったが、声には出せない。
 導士のほうを、ふりかえることすら、できはしない。
 うなだれて、しおしおと、椅子に腰かける。

 ジョルダンが落ち着いた頃合を見計らい、
 導士も隣に腰かける。

 窓辺から椅子へと歩み寄ってくる導士を眺め。
 初めてジョルダンは気づく。
 導士が、右足をわずかにひきずっていることに。

「……あんた、足わるかったっけ」
 隣に座った導士の顔ではなく、
 足元に目をやりながら、
 問いかけてみる。

「足首の骨を砕かれましてね。
 逃げ出さないように。
 まあ彼らも、
 そこまでやるつもりはなかったでしょうけれども。
 なにせ、わたしの抵抗が、凄まじかったものですから」

 相手も無傷ではすみませんでしたよ。
 彼の片耳は、ちぎれています。
 わたしが、噛みきってやりましたからね。

 壮絶な修羅場を語る導士の口調は、おだやか。
 表情も。
 ジョルダンはひそかに盗み見て確認した、
 その表情を。

「それがどうして、いまは仲良しさんなのさ」
 うつむいたままの、問いかけ。
 ひとりごとのよう。いっそ、罪の告白のよう。

 なぜか、ジョルダンのほうが。

「責めるのを、やめたからです」
 導士の口調は、おだやか。

「互いを責めることをやめ、おのれの罪を悔い。
 認め合い、許し合ったからです」

 ハハッ、なーんて陳腐なセリフ!

 普段なら、一笑に伏すところ。
 けれどジョルダンは、今回に限っては。
 そうしなかった。
 
「……そんなこと、カンタンにできるわけないだろ。
 許すだなんて」
 こう、つぶやいた。かすかに、反抗的に。

「簡単ではありませんでしたよ」
 導士の口調は、あくまで淡々と、おだやか。
 だが。
 この答えには、力強さが。

 ジョルダンは顔をあげて導士を見た。
 導士は前方を見据えていた。
「簡単でも、平坦でもない。
 それでも、わたしたちは、その道を、選んだ」
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≪018≫
 ジョルダンの視線に気づき、導士もそちらを向いた。
 ふたりは、見つめ合う。

 ジョルダンの凝視を、まともに受けると。
 さすがの導士も、やや照れる。
 瑠璃の瞳に、吸い込まれそうだ。

 結局、導士のほうが先に目をそらす。
 少々、ばつが悪そうに、はにかんで。

 それを見て、ジョルダンはホッとした。
 やっと自分が優位に立てた、と安心した。

 これも、幼少からの、悪いクセ。
 自分と他者との優劣を、つねに推し測る。

 魅了するか、されるか。
 それはジョルダンにとって。

 食うか食われるか、を示唆。

 あの苛烈な太守のもとでは、それは。
 文字どおり、生死を左右。
 野生の掟にも匹敵する、絶対の法則。

「あんた、名前、なんていうの?」
 導士の言動には厚みがあり、深みがあり、
 重みがある。
 そこらの説教者の醸す、うさんくささも。
 うすっぺらい感じも、しない。

 ジョルダンは、導士を認めた。
 同類として。あるいは。
 好敵手として。

 カイルとは違う。
 カイルは主人。
 同類でも、好敵手でもない。

 あれは主人だ。
 ときに悪ふざけが過ぎて、
 乱暴にじゃれついたりもするが。
 根本は。
 絶対服従をみずから誓った、主人。

 おそらく初めて。
 ジョルダンが他人に、名をたずねたのは。
 同類として、好敵手として、あるいは。

 友人として。
 興味を持ったのは。

 導士はその有り難味を、知っていたろうか。
 おそらく、知っていただろう、けれど。

 やはり淡々と、聞かれたことに、
 導士はただ答えるのみ。
「ティエリーと申します」
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≪019≫
 ところでさ、いくらなんでも、
 ちょっと遅すぎやしない?
 おれ、ちょっと様子を見てくるよ、いいだろ。

 ジョルダンは返事を待たず、
 中庭への扉に手をかける。
 導士も、今度は止めない。

 中庭に出たジョルダンは、凍りつく。

 木にもたれ微動だにしないカイル。
 カイルのひざを枕に、ぐったりと横たわる少女。
 心中の現場の踏みこんだかと見まごう。

 カイルが他のオンナと心中。
 おれを置いて。

 おれを置いて。
 カイルが、他のオンナと、心中。

 自分が気づいたときには、すでに。
 長く尾を引く絶叫を。

 驚いたカイルが目を覚ます。
 とっさに手近の剣を取る。

 カイルの緊張を感じとって、巫女も飛びあがる。
「ふにゃ?」
 巫女の第一声が、これ。

「なんだジョルダン、おどかすなよ」
「なんだよカイル、その顔は!」
 ふたりは同時に、互いを指差す。

「え、顔?」
 戸惑うカイルにジョルダンが、
 こわばった表情で鏡を手渡す。

「う、うわッ!」
 かぶりつくような勢いで鏡を覗きこむカイル。
 腹を抱え草の上を転がり爆笑する少女。

 そう、こういう反応が、見たかったのだ。

「こ、これは、キミが、キ、キミがやったのか?」
「他にだれかするヤツがいるのかよ!」

 カイルのとぼけた質問に、
 ジョルダンの間髪入れぬツッコミ。
 巫女の笑い声が宙にこだまする。
 笑いすぎて、目に涙。

 指先で涙をぬぐいながらカイルに近づき、袖口で。
 いたずら描きを消す。
 カイルの頬を、鼻の頭を、丁寧に撫でて。

「はい、きれいになったよ」
「あ、ありがとう」
「なんであんたが礼いうんだよ、顔にラクガキされたのに」

 巫女は、また吹き出す。

「もういいだろ、はなれろよカイルから」
 ぶすったれたジョルダンを見上げて、巫女は。
 ジョルダンに視線を据えたまま、
 カイルにわざと身を寄せる。

 こいつ!
 ジョルダンの頬にカッと朱がのぼる。

「こらこらジョルダン、相手は女の子だぞ、
 乱暴はよさないか」
 力づくで引き離そうとするジョルダンから、
 カイルは巫女をかばう。

 カイルに庇われながら巫女はジョルダンに向け。
 鼻にしわを寄せ、舌を出して、おどけてみせる。

「キミもだ。悪ふざけが過ぎるよ?」
 舌をしまう前に、カイルに見られてしまった。

「ごめんなさい」
 舌をしまって、あっさり謝罪する。
 軽い口調。反省の色は薄い。
 上目づかいで瞬き、ふっくらした頬に天使の微笑。

「……確認させてもらえるかな。
 キミは、こちらの巫女どのだね?」
 気を取り直そうと、ことさら鷹揚に訊ねるカイルは、
 しかし。

「そうよ。なまえは、ミリアム」
 巫女の返答に、魂を揺さぶられる。

「あたし、ミリアムっていうのよ、カイル」
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≪020≫
 あたし、ミリアムっていうのよ、カイル。

 あれから何度カイルの耳にこの言葉が、あの声が。
 こだましたことか。

 昼夜の区別なく。むろん大事な会議の最中も。
 執務室の重厚な机の前に座って、
 重要な報告を受けている途中でも。

「……という結果が出ております」
 ハッと我に返ってみれば、聞き取れたのは、
 末尾のみ。

「あ、すまない、もう一度……」
 カイルになにかを伝えようとして、
 同じ事柄を二度訊ねられることなど、滅多にない。

 別件の文書に目を通しながら、
 口上を聞いてそれに応じ、
 窓の外から射し込む陽光や鳥のさえずりを愛で、
 部屋の片隅でくしゃみをした従者の体調を慮ることまで
 自在に、できるというのに。

 いつもなら。
 そんなことはごく自然に。

「は?」
 報告を述べていた使者は、虚をつかれて面食らう。

「……いや、やっぱりいいよ。
 あとで読み返すから、それ、
 そこへ置いて行ってくれないか」

「あの、陛下、失礼ですが、どこかお加減でも……?」
「いや、なんでもないよ。本当に、なんでもないんだ。
 ただ、ちょっとぼんやりして」

 ぼんやりすること、それ自体が。
 異常事態だって言うんだよ、あんたの場合。

 ソファに深々と身を沈め、足を組み。
 肘掛にゆったりと肘をあずけて頬杖をつく、
 ジョルダンのくちびるが、こう動く。

 発したのは、ため息だけ。

 ジョルダンのため息に皮肉を感じ取り、
 じろりと一瞥を投げてから。
 戸惑う使者に、カイルは極上の笑みを向ける。

「本当に、あとでちゃんと読んでおくから」
 もう出て行ってくれないかな。
 そこまで口に出す必要は、なかった。

 訝りながらも使者は、賢帝カイルの意向に従う。

 賢帝カイルに従わない、ジョルダンだけが。
 執務室に、残る。

「あんたがどんな考えごとにとらわれて、
 ぼんやりしてんのか、当ててやろうか?」

 カイルのほうを向かず、つぶやく。
 カイルには端正で冷淡な、横顔しか見せてやらない。

「別に、いらないよ」
 カイルの拒絶など、ジョルダンは意に介さない。

「みりあむ」
 一言一句、おおげさに口を動かして。

「ミリアム。ふしぎな少女だ。
 あの子はどうして
 おれの身分を知っていたのだろうか。
 こちらから名乗るまえに?」
 カイルの口真似。
 ことさら低い声音を使って、彼の気持をおどけて代弁。

 そう、あのあと屋内で話をしたが。
 カイルが名乗る前に巫女は彼が皇帝だと知っていた。
 知っていながら、あの態度だったのだ。

「そんなのカンタンな謎解きさ。
 あんた面会の予約とって行ったんだぜ、あのとき。
 あいつが知ってても、なんにも不思議じゃないだろ」
 ジョルダン本来の、少し高めの声に戻って。

「導士には、おれの素性を伏せておいてくれるよう、
 頼んでいた」
「じゃあ導士が約束をやぶったのさ」
 カイルの反論を、言下に否定。

「百歩ゆずって、あいつがなにも
 知らされてなかったことにしてやってもいいぜ。
 でもな、あんた自分が有名人なの、わかってる?

 あんたは何千人何万人いる民を
 いちいちひとりひとり憶えていられなくっても、
 民のほうは、あんたを、よーく知ってるんだ。

 その目立つ赤毛、空色の目、厚い胸板、のびた背筋、
 長身、高い鼻、がっしりした頬骨とあごの線、
 完璧な歯並び。
 笑うと右側にだけ出るえくぼまで知ってるよ。
 だれだってな!

 中央広場にでっかい像は立ってるし、
 行事のたんびにバルコニーから手をふってるだろ。
 絵姿は飛ぶように売れてる。
 一家に最低でも一枚は必ずある。
 コインの図柄にまでなってるんだぜ。

 あんたを知らないヤツがいたら。
 そいつこそモグリだよ!」

「……いいから座れよ。らしくないぞ、ジョルダン」

 ジョルダンはいつのまにか。
 立ちあがって、わめき散らしていた。

「みりあむ」
 深呼吸をした後、またジョルダンはくりかえす。
 その名を。

 立ちあがって、正面から、カイルを見据えながら。
 カイルの眉間に、しわが寄る。
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